東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『東京』

東京は曇り空で、少し仕事の合間に時間があったので、東京都写真美術館の『東京 中野正貴写真展』を観に行く。恥ずかしながら、『TOKYO NOBODY』という作品についてはちらっと知っていたけど、実際の作品に触れることはこれまでなかった。東京タワーを様々な場所から撮影したものや、建物の窓ごしの風景を撮るといったシリーズなど、TOKYO NOBODYシリーズの他にも刺激的な作品群をいろいろ観れる。興味深いのは、それぞれの写真がとても大きいサイズで、こういうサイズ感は、図録やネットの紹介で画像を観るのとは異なる印象として出現する。この大きさもカメラマンの方の意志だし、さらには、展示の順番、配置の仕方も考えがあってのこと。展示コースの最後の方で東京の街で出会った様々な風景、人物の瞬間を切り取った写真が展示されてる一角があるのだけど、その展示は、壁一面に作品が貼られている。しっかりと観るなら一つ一つの作品をきちんと観れる位置に置くだろうが、それよりも一つの塊として、壁一面に貼ることで出現する『この展示に置ける』表現が出現する気がする。展示に添えて中野さんの言葉もあった。その言葉を引用。

正直に言って現在の東京の変化を肯定すべきか否定すべきか判断がつかない。僕はいつも東京を撮る時に愛憎半ばする矛盾をはらんだ視線で撮影を続けてきた。僕が考える理想的な都市像とは、価値あるレトロな建物と最先端の建物がバランスよく共存する空間なのだが、東京は既に取り返しがつかない程に大事なものを壊してしまった。破壊と再生という回転を始めてしまった都市はそれを続けるしか存続の道がない。

実際のところ、車で東京を走ると、築地市場が消え去り、新市場ができて豊洲近辺は大きく変わろうとしているし、代々木にもまた国立競技場が新しく作られているし、渋谷の再開発は冗談ぬきで1日ごとに様変わりをしている。そういった再開発が「未来はすごいことになりそう」という希望を抱かせるものというよりは、何か無理やり走り続けるための無理を強いているように思えるけれど、そうやって破壊と再生を繰り返すしか道がないことは、あまり建築とかそういうことに知識がない僕でもおぼろげに感じたりする。そういった混沌に近いものを、壁一面に貼られた作品たち全体から体感する。そして、不思議なもので、写真を通して観たときに、なにやら絶望的な気持ちになるというよりは、その色彩豊かな一枚一枚からは、何かしら美しさも感じるから不思議だ。東京の、そのつぎはぎだらけの、だからこそ存在するエネルギーのような。そういえば、東京は川が多い。その川が東京という土地の血液のように脈々と流れている、ということも中野さんが語っていた。それもまた興味深い表現だと思う。

で、最近は、美術展はそういうのが多いのだけど、写真撮影OKという。お言葉に甘えて、展示スペースをいろいろと写真に撮る。

外にでたら、雨が降っていて、いよいよ寒かった。