東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『シン・ゴジラ』

tokyomoon2016-08-03

この前の土曜日。仕事が休みで落ち着けたので、家の掃除などをする。布団を干して洗濯をすると汗をかく。それで、まだ午前中で、窓を開けて扇風機をつけると風が気持ち良くて程良い暑さ。


契約しているケーブルテレビの電波チェックというものをしに業者さんがやってきて、チェックをしつつ、一通り営業もしていく。そして「実は7月中はCS放送が無料で観れたんです」と非常に今更なことを言う。せっかくなのでCS放送を見ると「インクレディブルハルク」が放送されており、観る。政府から追われる主人公をエドワードノートンが演じるが、彼がブラジルからアメリカまで徒歩などで逃亡する。地理感がわからないが、そんな簡単に行けるのか。


それから少し散歩。南池袋公園に行くと、これまでは養生されて立ち入らなかった芝生に入れたので、そこで寝そべって本を読む。中上健次さんの『天の歌』。歌手都はるみさんの半生を描いた作品。こういうノンフィクションのようなものも書くのだなぁと思ったけど、『天の歌』の副題は「小説都はるみ」。小説である。

ノンフィクションかフィクションなのかはさておき、『天の歌』の主人公、北村春美は、母親の歌手にさせるという強烈なまでの強い意志のもと、歌を歌わされる宿命を背負い、そのために生きていく。そこには、父への憎悪のような愛情を抱える母の存在や、その母の想いを知りつつも、歌うことに戸惑いながら、ひたすら歌に生きる春美がいる。それは、中上健次さんの書く小説の登場人物たちのように、どこか昏さを抱えながらも、その生を全うしようとする姿と重なる。


寝そべりながら本を読む。風が心地良い。池袋の繁華街の中にポンとある公園だけど、そこだけ喧騒から少し遠ざかったような感じになる。蝉の鳴き声と、子供の笑い声も聞こえる。暑さも心地よかった。夜は嫁や娘と合流し、西武デパートの屋上で食事。夜になると少し蒸し暑さが出てきた。


夜、CS放送でやっていた庵野秀明監督の『巨神兵東京に現る』を面白く観る。それで『シン・ゴジラ』が観たくなり、昨日、映画の日ということもあり仕事終わりで新宿の映画館へ。

映画『シン・ゴジラ

ド派手なアクションに振らず、特撮とCGを織り交ぜた映像。そして出来る限り撮影されている実写パートが、画の迫力を増し、見事に融合されていると思った。ゴジラが通り過ぎた場所を視察するシーンの廃墟の美術は圧巻。面白く観たのですが、久しぶりのゴジラ映画であるにもかかわらず、あえてゴジラに焦点を当てず、人間の、それも一般の人でなく、政治的な立場の人たちに焦点を当てたことについて考える。恐ろしいほどの出演者がいるなかで、誰一人一般人はでない。カメオ出演的な人でさえ、救急隊員などの立場の人物。

映画のコピーがずっと気になっていた。『現実(ニッポン)VS虚構(ゴジラ)』。この構造はなんだろう、虚構ってなんだろうと気になってた。観た後に自分なりに考えると、これは、震災などの自然災害ではなく、戦争でも無い、超大型の特殊災害を題材に、政治的な立場の人たちや自衛隊の人たち、研究者たちが、(戸惑う政治家をいささか喜劇的に描く場面もあるけれど)、己のことを顧みず、「この国」のために戦うことを描いた作品だと感じた。虚構と書いてゴジラと読ませているけれど、ニッポンという現実に対して、虚構は、この際、なんでも良かった。ゴジラでなくても、それがインデペンデンスデイのような宇宙人でもかまわなかった。ニッポンという現実が、国を挙げて戦うべきものであれば。政治的な立場の人たちが、法律を変えながら、自衛隊を出動させて、国際的にも安保条約をふまえてアメリカに協力を仰ぎ、国連の助けもうける。ほぼ0%だろうけど、万が一に起こりえるかもしれない災厄に対して、超『現実的』に対処する日本人を描いた作品として『シン・ゴジラ』がある。繰り返すけど、虚構はなんでもよかった。この作品はゴジラだけど、ゴジラは虚構として1つの想定ケースに過ぎない。

例えが悪いけど、これは『ゴジラ』を題材にして扱った、政治家たちの『プロジェクトX』の超拡大版に見えた。

いや、単純に面白かった。ハリウッド的なエンターテイメントに転ばさず、日本人を日本的な角度で描いた。特撮と実写を駆使した映像作りも良かった。後半につっこみどころは確かにあった。ゴジラが動かなくなるところの、あの都合の良さや、在来線や新幹線に爆弾を積んでゴジラに攻撃を仕掛けるといったことを本気でやるのか、という部分はある。ゴジラの口に重機で薬剤を流し込むなんて技も大胆すぎて驚く。ただ、そういった荒唐無稽さこそ、最も特撮っぽく歓迎すべきかもしれなけど。いずれにしてもそんな瑣末なところは一切気にならない。単純にとても面白かったから。

ただ、元々、原子力の恐怖や戦争の愚かさを描くために作られた側面もあるゴジラが、特殊災害の1つのケースとして使用され(もちろんそれだけではないことは重々承知だけど)、ゴジラを殲滅させるために核を使用しようとするアメリカに対し、日本が、その外交手段、自衛隊などの軍隊、研究者と知恵の全てを使い、核ではない方法で、原子力の塊の虚構を退治するその行為を、政治的野心をチラつかせながらも「この国を守る」というブレのない姿勢を持ち果敢にゴジラという特殊災害に立ち向かう政治的な立場の人たちを、完全に肯定した形で、この時節に描くことに対して、何か手放しで楽しめない自分がいる。

エンドクレジットの自衛隊の細かい記載。全面協力無くしてこの迫力の画は撮れなかっただろうし、その感謝の意で記載されてるのはわかる。わかった上で、さらりと容認されてるようなのが不気味で仕方がない。

繰り返しだけど、面白かったことは間違いないです。ただ、同じく庵野秀明さんが総監督を務めた『巨神兵東京に現る』は、ひたすらに都市が破壊される姿を特撮とCGで描いたことに魅力があったのに、今回は後半に向かうにつれて、それを楽しめなくなってきた。偏った見方をしているのだと思うけど、このような手触りを感じた。


昨日、夜遅くに強い雨が降った。雷が鳴っていた。ずいぶんと遅い時間だったのになんだろうと思った。