東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『死』と『野火』

tokyomoon2016-07-28

大学の先輩が飼っていた猫が亡くなったと、フェイスブックの投稿で知る。16歳。僕も前から知っていて、年賀状とかにもその猫の名前が家族と一緒に記載があって覚えていた。とても長い時間一緒にいたのだなぁと思う。その先輩のお子さんにとっては物心ついたときから一緒にいた猫で、身近で目の当たりにした最初の『死』なのだという。うちにも猫はたくさんいて、その『やがて』が来るのだろうと思うけれども、それは避けようがないし、ひとまずそれが来るまではどうしようもない。日々を楽しく過ごすことでいいのだと思う。ウチの猫たちは相変わらず元気で、小さい猫が周りでバタバタしても、すでに初老の域に達した猫みぞれは、それを許容して寝そべっている。


歯の治療は引き続き、続いている。昨日、それほど大した治療ではない、はずなのに、結構な麻酔を打たれ、治療後も麻酔が切れず口の中が変な感じだった。


いくつか録画していたものをみる。
塚本晋也監督『野火』
息がつまる。誰も何に向かって戦ってるのか定かでない。敵と呼ばれる人たちが一体誰なのかもはっきりしない。統率もない。彷徨していると不意に死に直面する。その局面で生と死をわけたものは『運』だけなんじゃないかと思える。戦争ってきっとこういうものなんだろうなぁと思う。井上ひさしさんが病床でおっしゃっていたという「戦争や災害の死は、みんな同じ死に方をしなければならない。人それぞれ違う死に方をすることは幸福なんだ」という言葉が思い出される。大岡昇平さんの『野火』も読まなくては。市川崑監督版の『野火』も観なくては、と。


無条件に、ただただ無条件に、戦争だけは反対だなと改めて思う。



そのあと、樋口真嗣監督の『進撃の巨人』/『進撃の巨人 エンド・オブ・ザ・ワールド』を観た。前編に関して、前評判で聞いていたほどの悪い印象はなく、ネット上で読んだ『童貞』と絡めた感想が興味深かったけど、後編は何かいろいろ間延びしたものを感じた。少し長くなっても1本にまとめることができたようにも感じた。なんにせよ『野火』を観た後には、ちょっと比べようがない。描かれるグロテスクさは変わらないかもしれないけれど、『死』の無慈悲さ、目の前の、本当に無意味で、惨たらしい『死』の描き方としては『野火』が圧倒している。血糊がカメラに飛び散り映像と、CGによって血糊がカメラに飛び散る映像の、どちらがどう、ということではないのだけど、『野火』の手持ちカメラの接近の度合い、手ブレがもたらす緊迫さ。それは技術云々ではなく監督の意志のようにも思える。