職場の人たちにもスマートフォン所有者が増えている。私と言えば、2008年の2月に購入したD705iμという、化石のような携帯をいまだ利用している。携帯は電話とメールくらいしか必要ないと思う性質なので、まったくスマートフォンに対する興味が湧かない。なにせ、微妙にでかいと思う。そのでかさがすでにスマートではない気がする。
『コクリコ坂から』。1963年という時代背景における見解は、週刊文春の7月28日号に書かれている小林信彦さんのコラムが興味深い。高度経済成長期の開発によって、東京は決定的にそれまでの東京を破壊した。高度成長という名目で工業化され、川は汚れ、煙突からの煙が空を曇らす。『コクリコ坂から』の港町はアニメーションの柔らかさはありつつもそれを描いている。(小林信彦さんが、その当時の町をきちんと描いている作品として黒澤明の『天国と地獄』を挙げていて、確かにそれを見たときの、息苦しさは、最近の昭和懐古ブーム的な映画では存在しないように思える)
学内の文化部室が集まる『カルチェラタン』の描写、そこで各々の活動に没頭する生徒諸君を見ていると胸が熱くなるのは、個人的なことではあるけれど、大学時代の寮生活を思い出すから。『何かを変える』『何かが変わる』という信念の元に、一心に自分のやろうとすることに突き進み、やがて団結し、『カルチェラタン』を守りぬく。
登場人物全員が、自分の気持ちに率直に行動する。その清々しさ。
何より興味深いのは、主人公を取り巻くあらゆる行動が、上と下を行き来する垂直運動によって行われること。
亡き父に向けて、信号旗を掲げる行動が、まず垂直運動であり、
その旗に応えて、同様に旗を掲げる俊の行動も垂直運動である。
『カルチェラタン』の上階から飛び降りる俊もまた、垂直運動を行い、この垂直運動をきっかけに、主人公海は俊への恋心を生じる。しかも旗を掲げる垂直運動を行っている最中に。
海の住む『コクリコ荘』のある山手から、俊の自転車に乗って買い物に、港町に下るのも、
学校の階段を二人揃って駆け上がる場面も、
なんなら『カルチェラタン』自体の構造が縦型であり、その中の最上階に新聞部があり、そこに登るところさえも、あらゆる場面に垂直運動が行われている。
その上下への運動が、熱を産む。その熱が、おそらくこの時代の空気なのだと思う。その熱が、なんというか、僕のような、その時代を知らぬ者にとっては、言葉にしたら『良い』になるのだと思う。安易な昭和懐古のノスタルジーではなく。その熱こそが。
蛇足かもしれないけれど、この映画のキャッチコピーとして使用されている坂本九さんの「上を向いて歩こう」もまた、この垂直運動を補完している気がする。
物語のクライマックス。主人公二人は学校から海へと下る垂直運動を行った後、船に乗る。ここに水平運動がある。水平に行われる運動は、今と過去とをつなぐ時間運動になっている。戦争のことを語る場面が、もちろん全てではないけれど、海の上であることは、ただの偶然とは思えない。そして、その過去を受けて、今を肯定して立つ主人公の姿によってこのシーンは閉じられる。その場面で、遥か上空に見える、山手の信号旗を見上げる姿。垂直運動と水平運動がここで交わる。
この『コクリコ坂から』がどのような評価なのか判らないけれど、いくつもの点でとても刺激を受ける作品だった。なんだかんだと能書きをたれたことよりも、素直に、映画に出てくる人物たちの率直さが心地いいというのが、何よりだと思う。
帰り時、もう夜遅い新宿駅前。これから、どこかへ向かう深夜バスが甲州街道を走っていた。まだ出発間もないようで、車内の電気が点いている。何人かの人たちが、カーテンを開けて、窓も開けて、新宿の街を見ていた。早朝には、自分の街に帰る人たちにとって、新宿はどのように映っているのだろうか。いや、僕でさえ、別に新宿の住人というわけではなく、ただ日々の生活のなかで、たまに利用するだけの街で、きっとバスに乗っている人と同様に他所様の街なのだけど。