東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『パラドックス定数/チャレンジされている人』

■ 雨が降ってすごく寒い。なのにちょいちょい半袖や薄着の人を見る。そういう人を見ると寒くないのかと思う反面、僕が風邪を引いているせいで寒いだけなのか判らなくなる。極めつけに半袖短パン、そして下駄という服装の人を発見。下駄ときたか。寒さ云々もさることながら雨なのに下駄かぁと驚く。


■ 渋谷でパラドックス定数の『怪人21面相』を観劇。面白かったぁ。グリコ森永事件が題材になっているお芝居で、登場人物は怪人21面相に扮した4人の実行犯。当然、作者の創造。舞台は実行犯の隠れ家の保養所という設定。僕らが知っているいわゆる史実は舞台の外で行われ、舞台上で演じられるのはその史実に至る日々や、犯行後の話。つまり作者が創造した世界だけが展開される。


■ ディテールがすごくしっかり作りこまれているし、台詞の一つ一つがなんといいますか、かっこいい。登場人物4人だけの会話劇風なのに緊張感が途切れない。作品はある程度、謎解きのような要素もあるのだけど、そういう部分よりその空間にいる4人の関係性から作り出される濃密な空気感がこの作品を単なる歴史ものや謎解きではない劇的な作品にしていると思う。逆説的なんだけど、多分、この話がすべて作者の創作だからこそこういう空気感が作られるのだと思う。ある意味でものすごく斬新な歴史ものの形態をかりた創作劇だと思う。


■ あと公演場所がすごくいい。渋谷駅新南口から徒歩2分ほどのところにある(同じ渋谷でもハチ公口とかから出てしまうとかなり切ないことになるけど)その名も『EDGE』というその場所は、雰囲気がさながら倉庫。照明はあまり吊れないし、日中はけっこう日が射してくるので通常の芝居には不向きかもしれないのだけど、今回の芝居にはぴったり。時折聞こえる電車の走行音も効果音のように聞こえる。すごく雰囲気のある換気扇があってあれ使わないのかなぁと思ったらやはり使っていた。これ真夏の日中にこの芝居をこの場所でやったらギラギラ暑くてすごくいいかも。なにせ空調がないから(だから今日はめちゃくちゃ寒かった)。あ、でもそうなると日時の設定が難しいのかな。それにしてもよくぞこの場所を見つけたなぁと思う。


■ 第五場から終幕に向かうところが唐突な印象を受けたけど、それを抜いてもすごく面白かった。ところでこのお芝居、登場人物の4人の内1人が被差別部落出身という設定になっていた。このグリコ森永事件が大阪や京都といった関西圏での事件であることから創造したのかもしれないが、作者の方がどのような意図でそういう設定にしたのかは僕には判らない。ちょうど森達也さんの『放送禁止歌』(光文社知恵の森文庫)を読んでいる最中だったのでそこが少し気になった。


■ これは僕個人の言い訳なんだけど、ずっと関東で暮らしてきた僕は日本に残る差別問題についてほとんど知らない。小学生の時に、突然全体集会のようなものがあり生徒が体育館に全員呼び出されて「日本にはこういう地区があり、差別がありますが、これはよくありません」と唐突に言われて面食らったことがある。それはそれで知らないよりはましなのかもしれないけどその時は、ただこういうことがありますという事実だけを突きつけられてその歴史的な背景をまったく教えてもらえなかった。だから正直、なんのことかよく判らなかった。今はある程度知識としてはそのことについて知っているくらいにはなったけど、今回『放送禁止歌』を読んで改めてきちんと学ばないといかんなぁと思った矢先だった。すぐ隣にある事実に自覚的でないことがいけない。今回の芝居の作者の方は日本の現代史をとても勉強されている方だということは作品から判断できる。おそらく西に住む人にとってこの問題は僕が思っているよりもずっと身近にあるのだと思う。だからこそういう人物を作品にあえていれたと僕は思う。


■ ところで森達也さんの『放送禁止歌』は面白い。本筋とは少し逸れるのだけど掲載されているデーブ・スペクターとの対談の中で、アメリカの差別撤廃運動としてpoliticaiiy correct(通称PC運動)について書かれている箇所がある。このPC運動とは性別や年齢、身長や肌の色、経済格差や身体的なハンディキャップなどにある差別的表現を政治的に正しく言い替えようという運動らしいのだけど、これがかなり行き過ぎている。このPC運動に則って近視や遠視、盲目など視覚にハンディキャップを持つ人のことを言い替えると「視覚的にチャレンジされている人」になるらしい。同様に知的障害者のことは「知的にチャレンジされている人」に言い替えられるとのこと。このなにやらとんでもない感じはなんだ。


■ それで、この行き過ぎたPC運動に皮肉をこめた一冊の本がアメリカで出版されたらしい。タイトルは『政治的に正しいおとぎ話』(Politically Correct Bedtime Stories)。つまり誰もが知っているおとぎ話を差別用語をなくして政治的に正しく言い替えたらどうなるかを紹介した本なのだけどこれが痛快。いくつか例があるのだけど『ジャックと豆の木』を政治的に正しく言い替えるとこのようになる。


『通常の経済活動からはじきだされた母と子、そして雲の上に住むたまたま偶然巨人に生まれた男』


長いよ。そしてここまで回りくどいと逆に嫌味に感じる。さらに笑ったのが『白雪姫と七人の小人』を政治的に正しく言い替えたこれ。


『雪のように白いという有色人種差別的な名前の王女と七人の垂直方向にチャレンジされた男性たち』


なによりも『垂直方向にチャレンジされた』がたまらない。乗っていたバスの中で笑いを堪えるのに必死になった。


■ こういう差別が絡むことについてわらいは時に不謹慎と思われる節がある。でも僕はわらうという姿勢を肯定する。わらうということは自分が置かれている状況をきちんと把握しているからできることだ。「そりゃあなんでも行き過ぎてるでしょ」と理解してるからわらえるのだ。『放送禁止歌』はある意味で日本のメディアの無自覚さや差別問題に対してわらおうとするための本としてあると僕は思う。読み手である僕たち一人一人に『お前はどれだけわらえるか』と聞いていると思う。ただ、わらうためには自分が置かれている状況をきちんと知らなければならない。僕はわらいたい。今、日本にある差別の現状を知って、上のアメリカの本の例でわらったように、『差別なんてくだらない』とわらえるようになりたい。そのために差別の現状をきちんと知らなければならない。そう思う。