東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『勇壮な手紙/死を背負う覚悟』

久しぶりにゆっくりと出来た土曜日。たまっていた洗濯や掃除等をする。と、実家から送られてきた宅配便あり。中からは海老せんべいが大量に。そして母からの手紙が同封されている。




先日、差し歯が抜けたことを見透かしているかのような絶妙なタイミングのせんべい。そしてなぜに、勇壮な響きで母は小遣いをくれるのか。


6日のこと。M君が役者として出演している芝居を渋谷のギャラリーにて観劇。

台詞でしばしば使われる「世界」という言葉をどのような意味で使っているのかが気になった。私見ではそれは、「社会」のことのように思えた。舞台に登場する主人公たちは、「社会」に対して、なんらかの苛立を抱えている。それが物語のラストの行動につながるが、その行動は決して「社会」を破壊することを目論むものではなく、むしろその「社会」に対する自分たちの存在表明のようなものとしてあった。台詞として発せられる「世界を自分のものと思っているだろう」や「世界は私のものになる」といった言葉からも伺えるが、結局のところ、彼らは「社会」の存在に不満はあれど、結局依存している。
芝居のチラシによると、この戯曲は1995年に起こった象徴的な事件を目の当たりにした作者によって書かれたのだと言う。
その事件は、ある集団によって起こされたが、それは決して「社会」に対しての存在表明ではなく、その「社会」を破壊し、根本から作り直そうとするためのものであったのではないか。もっと遡れば、この作品のクライマックスのように、テレビによって中継された立て籠り事件がかつてあったが、その場にいた若者たちも、決して「社会」にコミットしょうとしたわけではなく、銃によって、本気で社会すなわち世界を変えようとしたものたちであったし、テレビで中継されることを望んでいるわけでもなかったのではないか。劇中の人物たちは違う。彼らは自ら「社会」の目の中に入ることを望むし、そこで彼らの行動(=意見)が見られることを望む。

そういった大規模な集団による事件とは別に、近年起きたある個人による無差別殺傷事件を見たとして、その個人の行為は「社会」で生きることを放棄した(せざるおえなかった)者による、「社会」に対する捨て身の行為としてあったと思われる。その個人を「社会」の法で裁こうとしたとしても、むしろ早く死刑になることを望んだその個人には無意味であったことからも、彼らの行為を考えるとき、「社会」の枠の中で考えることが困難になる。劇中の登場人物たちが、行為としては同じようなことをやっていたとしても、そこに共通のものを感じることが出来ないのは、役者の演技力どうこうではなく、劇中に存在する主人公と、それらの事件の人たちとの立ち方に微妙でながらも、決定的な違いを感じるからだ。繰り返しだけど、彼らは「社会」の存在を疑わない。苛立は、自分たちの意見に振り向かれて「yes」と言われないことへの苛立であり、彼らが望んでいることは、自分の考えが「社会」に認められることでしかないように思える。

劇中の彼らには覚悟が無い。それはおそらく根本的なところで、戯曲に、「死」を背負う覚悟が無いからだと僕は思う。否定的にとらえながらも根本として「社会」が存在することを疑わず、むしろその「社会」に対して「私のこの考え方どうですか?」と意見を求める様な立ち位置がチラチラと見えるところがどうしても僕にはだめだ。そういったことの方法として安易に「死」を用いることは、「死」に対する冒涜としか呼べない。個人的な好みとかではなく、ある一線を越えているかどうか、という点では、この作品は何かが欠けていると僕には思えた。

終演後、M君と、一緒に芝居を観た家常さんといろいろしゃべった。M君も、家常さんも作品に対して思うところはあったようだった。根本的なところで、創作に関して共通するところがあると思える人たちとの会話はやはり刺激を受ける。創作することへの意識のようなものをもっと考えねばならない。