東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『解り合うことの困難』

■ 今週号の『ヤングマガジン』(2006年24号)に掲載されている古谷実さんの『わにとかげぎす』は興味深い内容だった。


■ ざっと内容を説明すると、前回までのお話で、主人公の富岡の家に諸々あって浮浪者が一人住み着いた。浮浪者は我が物顔で好き勝手を始める。そんな浮浪者を富岡は煙たく思う。浮浪者はかつて金融関係から借金をしたことが原因でかなりやばい人たちに追われていた。運悪くそのやばい人たちに見つかってしまった浮浪者は、東京湾に残念な姿で浮かぶことになるだろうと宣告される。唯一、助かる方法が借金の200万強のお金を即支払うこと。当然、浮浪者にそんなお金はない。しかし富岡に貯金が300万円ほどあることを知っていた。浮浪者はそのことをやばい人たちに話す。やばい人たちのなかでもことさらやばい人が富岡に事情を説明する。やばい人は富岡に言う。「お前があいつを助ける義務はない。お金を支払う必要はない」。しかし富岡はこう返事をする。「それでそいつの命が助かるならばお金を支払う」と。


■ それがお金を支払うという行為であれ、富岡は自分に出来ることを為して一人の命を救った。興味深いのはその後の展開で、無事命を救われてやばい人たちから解放された浮浪者は涙ながらに感謝の意を富岡に伝えるが、富岡本人はその行為をけむたがり、救ったことを口実に浮浪者を家から追い出す。そして「人と関わることは疲れる。一人になりたい」と漏らす。


■ どんなに自分に迷惑をかけた者であっても、少なくともその者が命の危険にさらされたときには見返りを求めずに自分に出来ることをなそうとする姿勢が富岡にはある。富岡にはそういう『他者の尊厳』をその他者が存在しているというだけで認める視座がある。しかし、前後の二人のやりとりから富岡と浮浪者はお互いまったく『解り合えていない』ことは明確である。古谷実さんは『他者の尊厳』を認めることと『他者と解り合う』ことを区別して考えている。


『彼の存在を肯定する。しかし彼と解り合うことはできない』


  彼の存在を認めるということそれ自体も容易なことではない。ただ彼の存在を認めるという行為には「私」が関わる必要はない。200万円をまったくの他者のために支払えという過剰な要求にも関わらず富岡が即答で支払いに応じたのは、やばい人に怖気づいたからではなく、「私」が関わる必要のない行為に困難を感じないからだ。


■ しかし『他者と解り合う』ためには、「私」と「あなた」がそれぞれをある程度さらけだし、お互いを知り、ぶつかりあう必要がある。そこでは「私」の領域に「あなた」が侵入してくることを認め、また「あなた」の領域に「私」も踏み込んでいかなくてはいけない。これは富岡本人の言葉を使うなら「マラソンよりもしんどい行為」だ。富岡にとってこの行為を継続することは現時点で200万円を支払うことよりも困難だった。


■ この『他者の尊厳』を認めることと『他者と解り合う』ことは混同されがちだ。でも違う。『他者と解り合う』ことの方がはげしく困難だ。そのことがたった数十ページの話の中にこともなげに描かれている今週の『わにとかげぎす』はその点で興味深い。主人公である富岡は『他者の尊厳』を認めることができる男だけど、『他者と解り合う』こと、それはつまり富岡にとっての目標でもある友達を作ることにはまだまだ先に困難がありそうだ。『わにとかげぎす』はここにきてその命題をはっきりとさせた。今後は『他者と解り合うことは可能か』ということについて古谷実さんの考え方を描いていくのではないのか。