東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『祝祭の終り、羅列』

先週の金曜に、会社の上司の方と飲んで刺激的だった話は、かつてこの国に希望があったということ。ちょっと大袈裟すぎる表現かもしれないけれど、戦後復興以後、高度経済成長の中で打てば響く何かがあり、だからこそ人々は働き、また別の人々はそれぞれの手段で政治と向き合っていた…のではないかという話。


丹下健三さん達が行った建築運動であるメタボリズムにしても、改めて今見返すと、どこか浮世離れしたようなプランが並ぶけれど、これって、大阪万博が提示した未来感とすごく似ていると思う。本気でそれを行おうとした人たちと、本気でそんな未来が来ると思った人たちがいて、それを信じることが出来る雰囲気がこの国に充満していた。それはもしかしたら『祝祭』という言葉に表すことができるのかもしれない。


そして、それぞれが政治に向き合っていた。メタボリズムと同様に、今改めてそれを振り返った時に、どのように評価されるのかは置いておいて、その当時の社会運動を行う人たちの、あの根拠云々ぬきにした本気で自分の場所でもがき戦っている人たちのカッコ良さはなんなのだろうか。『あらかじめ失われた恋人たちよ』の、石橋蓮司さんのカッコ良さ。


1つ1つの行動が、何かを変えると信じられる『祝祭』性にこの国はあった。いつそれが無くなったのだろうか。そもそも、僕自身、その『祝祭』を感じることはなかったが。


興味深い言葉があった。上司は来年あたりに50歳を迎える。その方の父親は当然戦争を体験していた。昭和64年、天皇崩御の報道を聞いたその父は、涙を流したという。上司は、父の涙を初めて見た。まだ小学生だった僕は、テレビの中から受ける厳粛なムードに、ただならぬ事態が起きたことは感じつつもその死を具体的な出来事として受け止めることはなかった。もしかしたら、そこが分岐点なのか。
もしくは、95年か。大震災とサリン事件があり、決定的に何かが変わったような気もした。さすがに、その時高校生になっていた僕にもその事の大きさが理解出来た。Windows95が発売された当時、まだ僕はパソコンに対して何も興味を持てていなかった。大学に入った97年以降、重い腰を挙げた様にパソコンも使い始めたが、パソコンよりも携帯電話の方がやけに便利だと感じた時代だった。その頃はどうだったか。大学卒業後、仕事をしながら急速な発展に伴ってネットの利便性を感じつつ、Youtube の出現はやはり大きかったが、僕がYoutubeの存在を知ったのは2005年だった。遡って2001年こそ、世界的に見ても分岐点だったのかもしれない。とはいえ具体的には分からない。やはりその『祝祭』を肌で感じることができなかった身にはその終りを身をもって理解することは出来ないのではないかとも思えてくる。


それでふと思ったのは、『祝祭』の終りとは、戦後が終った時期をどこにするかなのかとも思えてきた。とはいえ、それもまた大きな分岐点としてあるわけではなく、1つの点なのかもしれない。戦後の終りをどこで感じるかはパーソナルな判断なのかもしれない。


もう1つ、別の言葉も思い出す。1956年生まれの劇作家の方が日記に書いていた。その方の父親も当然戦争を体験されていた。その父親が2008年に亡くなられた。その時に、その劇作家の方が個人として、完全に戦後が終ったという意味の言葉を日記に書かれていた。それは個人的な実感ではあるだろうけれど、どこか時代と連動しているようにも思う。なにせ、まさに戦後を生きた一人の人物の生涯に幕が降りたのだから。


何か、霧散した言葉を羅列してしまった。かつてあったモノ。今、喪失されているモノ。逆に今はあって、かつて無かったモノ。そして、今もかつてもあるモノ。戦後の終り。その次にあるものは、必然的に戦前になる。それはやはりどこか暗い雰囲気の漂うものだ。