東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『見上げる身体の魅力』

天気予報通り、午後から雨の一日。そうすると一層寒い。師走といえばバタバタとしそうな月ながらなんとなく落ち着いている。


先日、家常さんと話しをした際に、ポストモダンという考え方について少し話しになった。かなり大雑把に言ってしまうと、あらゆるモノをひとまず解体して掛け合わせる試みであり、それは現状を疑う行為でもあると思うのだけれども、そういう話しをしていると僕は國府理さんの作品のことを思わずにはいられなくなる。

福島聡さんの短編連作マンガ『少年少女』の、個人的に大好きな一編。『自動車、天空に。』でもその國府さんの作品が引用されている。デザインに対してそれほど精通しているわけでもないので極めて私見ではあるのですが、國府さんの作品の魅力は、AをBというモノに昇華するときに、そのAの性質を隠すことはせず、むしろ剥き出しの状態でBにするところ。それは現状を疑うというよりは、むしろAはAであるという揺るぎなさの上に成り立っている。それは解体ではない。むしろAがAであることから新しい視座がそこに出現する。これがポストモダンかどうか僕にはよく判らないけれど、このモノの見つめ方は大切だと思う。


そんなわけで、ふと國府さんのブログを見返していて、2010年11月の日記から以下のような言葉と出会う

そこで、あらためてひとり、顔を上に上げてみる。
瞼が開き、眼 球の周囲に何か新鮮な空気を感じる。喉があごにかけて一直線に伸び、気道が開けて鼻腔に新鮮な空気が流れ込むように感じる。リラックスしていれば自然に口 も開いてしまう。あたかも身体の生命活動に必要な入り口をすべて開け放って何かを求め、受け容れようとしているかのようにも感じた。


かつて『月を見に行く』という月を見る男女の話を芝居にしたことがある。日々の生活の中で、様々な悩みなどもあるだろうが、ふと月を見上げる瞬間だけはそういった諸々から解放され、全てを肯定できるようなどこか自由な身体が出現するような気がして、個人的に、月を見上げる、といった動作に心惹かれることがあり作品にした。
まったく異なる分野でご活躍されている國府さんの、見上げる身体に対するこのような言葉に出会えると、やはりモノ作りの根底には共通する何かがあるように思えてならない。