携帯を変えてから、スマートフォンで見る分にはツイッターは読みやすいので、つくにつぶやくわけではないのだけれど、気になる方のツイッターをフォローするためにツイッターアカウントを取得。それで疑問なのは、まったくの未見の方からなぜかフォローされたことで、まったくつぶやかない僕をそもそもどうやって見つけたのかも謎だし、どうしてフォローするのだろう。で、わずか20数名のフォローをしただけでひっきりなしにつぶやかれた記事が画面を埋めるのだけれども、あれ、100名以上フォローしている人たちってのはどうなっているのか。とてつもないつぶやきがあっちこっちしている。
友人のおさむしがブログに関して指摘をしてくれた。14日の日記で、僕がサリン事件を94年と書いていたが、95年の間違いでした。お恥ずかしい次第です。直しました。
その他にもいろいろと日記に関する意見をくれて、それでまたいろいろ考えてみたり。有難い次第です。
で、板橋駅にあったラーメン屋『てんつくてん』が無くなっていた件に関しても情報をくれた。驚いた事に、同名の店を要町で発見したらしい。それが9月頃まであったものの3週間程前に行ってみたところ閉店していたのだという。その唐突さも謎。ネットで調べてみると、王子にどうやら同名の店の存在があり、これは一度やはりそこに行ってみる必要があるかもしれない。
閑話休題。
昨日も羅列した、戦後という点で、多くの人たちが様々な分野で何かを成していた中で、急速な変化に対応出来ず戸惑ったり、ぼんやりと過ごしてしまった人たちもいたはずで、後藤明生さんの『挟み撃ち』を読んで、この作品の登場人物である赤木もその1名であると思えた。昭和7年生まれという赤木の設定は、作者後藤明生さん自身の出生年と一致するところも含め、『挟み撃ち』に書かれた急速な時代変化に対する戸惑いは、おそらく後藤明生さん自身が感じたこの国の、希望に満ちた感触とはまた異なる感触とも読む事ができるかもしれない。(『挟み撃ち』が書かれたのは1973年)
実さい、昭和七年にわたしが生まれて以来、とつぜんでなかったことが何かあったでしょうか?いつも何かがとつぜんはじまり、とつぜん終り、とつぜん変わらなかったでしょうか?
(中略)
つまりこういうことです。昭和七年にわたしが生まれてから生きながらえて来たこの四十年の間というもの、とつぜんであることが最早や当然のことのようになっているわけです。とつぜんの方が、当然なのです。したがってわたしも、当然のことにいちいちおどろいてはいられないわけです。いちいち大騒ぎしてはいられません。何が起こっても、おどろいてなどはいられません。実さい、何か起こるかわからないのです。そしてすべてのことは、とつぜん起こるわけです。あたかもとつぜん起こることが最早や当然ででもあるかのごとく、とつぜん起こるのです!
何か、どうにも抜き差しならぬ噴出する思いを吐き出すように「とつぜん」であることを述べるこの文章。少年時代に体験した戦争でさえ『わたしの知らないうちに、何かが終っていた』というとつぜんの手触りであって、学生生活も社会生活も、あらゆる面にとつぜんがつきまとっている。小説『挟み撃ち』は、そういった社会に対する戸惑いを吐露する主人公の内面を描くのかといえば、そうではなくむしろ『とうつぜは当然であるかのごとく、とつぜん起こる』を体現するように、過去と現在を縦横無尽に往来しつつ、物語としての進行がないまま、出来事がとつぜんが出現し肉付けされていくように積み重なっていく。それこそが『挟み撃ち』の魅力であると思われる。カッコイイとは異なるこの彷徨する身体もまた存在していた。そして、その身体は何も過去のモノではない、はず。
それとは、まったく関係なく『挟み撃ち』に不思議な縁を感じるのは、主人公赤木が実際に彷徨する道程が、埼玉県草加市から東武線で、上野にでて、そこから京浜東北線で蕨に向かうというもので、草加も蕨もどちらにもなんとなく縁があるから。僕の育った場所が草加市の隣の越谷市であり、蕨もかつて数年間ではあったが暮らしていた。まぁ、小説の舞台は蕨といっても中山道側で、僕は川口市寄りに住んでいたから厳密にいうと接点は薄いのだけれど。ただ、草加と蕨という距離感は身体的に理解ができるので、それだけでもまったく縁のない人に比べると少しばかり空気感を理解した上で読める気がする。まぁ、それも個人的なものですが。
おそらく先日飲んで語った社員の方の父親も、とある劇作家の方の父親も、この赤木すなわち後藤明生さんとほぼ同年代を過ごしてきた人たちだと思われる。であるならば、気になるのは、やはり後藤さんにとって戦後はいつ終ったのだろうか。そして、昭和天皇の崩御とは、この人にとってどういうものだったのだろうか。