東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『今日という日もこえて』

■ 今日という日は60年前のこの日にある意味づけをされた一日なのかもしれない。ただかつての事実を学校や本で学んでいるだけの関わり方しかできていない僕は、未だにそれをきちんと実感することができないまま、いつも傍観者でいるのではないだろうか。でも、まぁ傍観者の立場しか取れないのも確かだ。何もかも程遠いところで生きてきた。ならば、とことん傍観者としていつづけるということが僕の世代の生き方ではないかとも思うわけです。


■ 郵政や選挙の問題ですっかり話題に上らなくなっているようで、一体どうなるのか判然としないのが小泉首相靖国参拝


■ 『靖国』(新潮文庫)の著者である坪内有三さんが文藝春秋の連載『人声天語』の八月号でこの問題に触れている。長くなるけど引用。

『戦後六十年である今年、小泉首相靖国神社参拝に、私は、賛成である。
 ただし、それは、八月十五日の参拝に対してではない。
 これは既に何度か述べていることであるが、八月十五日は、カミさまの来る日ではない。ホトケさまの来る日である。つまり、八月十五日に、靖国神社では、特別の行事は行われない。
 だから、靖国神社にまつられている御霊をお参りしたい気持ちがあるのなら、七月の御霊祭りの時に靖国神社を参拝すべきである。』

僕なりに少々靖国に関わる文章を読んで、これだなと思ったのはこの坪内さんの文章でした。


靖国神社は明治時代に建立された神社で、明治維新の時に日本の為に尽くしてお亡くなりになった方を追悼するための目的で作られた。だから建立後、そういう主旨で奉られた御霊は数多くあるわけで、もちろん太平洋戦争でお亡くなりになった方が靖国に奉られている御霊のうちのかなり割合を占めているとしても、それだけが全てではなく、だから八月十五日に参拝するのは戦死者の方に関わりのある方々や遺族の方々たちには個人的に重要なのかもしれないけれど、首相が少なくとも靖国の精神を尊重して参拝するのならば、靖国神社として公式の行事(靖国神社の公式の行事は七月の御霊祭りと秋の例大祭りの2回)があるわけではないこの日に行くのは(で、公式な行事の日に行かないのは)ちょっと違うのではないだろうかというのはとても真っ当な考えだと思う。


靖国に関わる問題はいろいろあるのだろう。靖国が『英霊に感謝し功績を顕彰する施設』ということで、そこに参拝するということはかつての軍国主義を賛美していることになるという見方。戦争で亡くなった方がいるといっても全ての方が奉られているわけではない。例えば東京大空襲で亡くなった方とかは奉られてはいない。明治維新時も官軍ではない戦死者は奉られていない。それは国によって選ばれている。戦前は国の施設としてあったわけで、軍国主義に突き進むための思想の場(国のために戦争で死に靖国で会おうとか)として使われたのはゆるぎない事で、太平洋戦争後に宗教施設になったけど、その後も国家護持に戻そうとする運動が盛んに行われていた時期もあった。靖国を戦前の意味合いで用いようと考える人もいる。極東軍事裁判においてA級戦犯とされた方が合祀されているのもまた問題を複雑にしている。


■ 一方で極東軍事裁判の正当性も問われている。戦勝国だけによって組織された場所で裁かれることは正しいのか。戦争で負けた国にだけ責任があり、勝った国の責任は問われないのか。またワシントン講和条約の十一条で東京裁判を受諾したことの解釈の違いもいままでもずいぶん議論されている。


■ 少しずつだけど自分なりに考えて、その結果、とりあえずそういうごちゃごちゃした問題はもういいという気分になりました。


■ 中国政府の今の立ち位置の取り方は、経済的に成長している今だからこそ取れる立場で、なんだか大きくでているんじゃないかなぁと思ってしまいます。だけど、それを言ったら日本だって戦後、敗戦直後の何にもない時期にワシントン講和条約で全てを受け入れていたのに、高度成長期に入った後、他の国々と肩を並べられるようになってからA級戦犯も被害者だったということを言い出したわけで、これはどうしたって国の内と外で言ってることに矛盾があるわけだし、自分の立場は良くなれば弱かったときに受け入れたことも変えたくなるのはお互い様なわけです。


■ で、そうなると死生観の違いが言われる。日本では罪を犯しても刑に服してその刑を受けたら罪はなくなる。死んだら全員神様になる。神道ですから、と。しかし、日本人はそんなに神道ですかと思うわけです。信仰もそれほどないし、教育もない。歴史でも縄文時代や先土器時代が最初で、それ以前の神々についてきちんと学ぶ学問はない。歴史として学ぶって言うのが大袈裟でも、神話学としてきちんと学ぶくらいはあれば、信仰もあるのかもしれないけど。(まぁそういう信仰抜きに神話を学ぶことは重要だと思うが)。だって一方でアメリカではダーウィンの進化論を否定して神が生き物を作ったという創世記を歴史の教科書に掲載しようとしているって話があったと聞いたことがある。それを冗談ではないのって思うのはその宗教を信じてない(関心がない)人だから言えることで、それを真剣に信じている人は間違いなくいるわけだ。果たして日本人にとって神道はそのくらいやっちゃうほど真剣になれる日本の宗教かと言われたらやっぱり疑問。少なくとも週に一回は教会に行くように日本人は神社に行きますかね。大晦日だけ異常に騒ぐだけに見えますが。そういうことを思うと、この日本人は神道だからっていう意見もこの問題に関して正当性をいうための武器でしかないんじゃないかと疑ってしまう。


■ でも、そういうモヤモヤを持ちながらも、死に対する向き合い方を人が人に意見するのはおかしいと思うわけです。それはこの靖国を外交としでなく内政だから中国は口出すなというようなわけではなく、日本人同士でもその人のやり方に指図するなってことで。もう個人個人でいいのではないかなぁと思うのです。


■ これはちょっとあんまりな言い方なのかもしれないけれど、A級戦犯も、一人の兵士として戦場でお亡くなりになった方も、空襲でお亡くなりになった方も、戦争に無関係だった人も、誰がどう違うとかそういうことは、もはやバブル突入直前に生れた僕にはあまり意味をなさないのです。みんな平等に僕とは無関係で、一緒なのは僕より前にお亡くなりになった先達たちだということです。だからそれだけでいいのではないかなと。だれそれ関係なく、全員の御霊に祈りをささげる。この国のためにっていうと大袈裟になってしまうけど、僕が何かに手を合わすとき、そんな気持ちでお亡くなりになった全ての方に安らかに眠って欲しいなと思っています。自然な気持ちで。


■ ただ、だからって何も考えないわけではなく、今後もあの戦争や靖国の問題を考えていきたいと思っています。それは事実をもっと学ぶために。それは誰が正しいとか悪いとかを見極めるためではなく、ただ純粋に事実を学ぶための行為です。それが傍観者として戦争の事実だけを知っている立場としての僕の態度です。


■ 僕自身は他者の死に関しては手を合わせますが、死そのものに関してはかなり淡白に考えてます。死に関して僕が考えている全てのこと自体が、「死」が僕に訪れて肉体が消滅すると共に滅びると考えてます。生死観さえも「死ぬ」というのが僕の死の考え方です。僕が死んだら別にそのまんま土葬してくれるだけでも構わないんだけど、それを日本でやってしまうとどうやら現在は死体遺棄になってしまうらしいんで、それは残った人に迷惑になるので、まぁ焼いて灰をどこかに捨ててくれればいいんだけど、捨てるならせっかくだから桜のきれいな場所か海がいいなとか思うくらいで。


■ そんな淡白に死を考えていても、それでも死者に対して手を合わせるのは、それがその先に自分自身を見つめる行為なのだからだと思います。だから死者に対して手を合わせるとは、死者自身と向き合うということではなく、その死者とどういう風に向き合うのかを含めた僕自身の生き方や考え方を見つめる行為なのだと思います。だから僕は手を合わせ続けます。全てのことに対して、僕が思うままに手を合わせます。それは僕自身の考え方で、人に押し付ける気はありません。


■ だから、それぞれがそれぞれの立場で死者ときちんと向き合っていけばいいなと思います。そこには中国も日本も靖国もいろんな宗教も何も関係なく。靖国に関する偉い方々の論争を見ていると国交がどうのや、なんやかんやで、本当に純粋に自分という一個人がどう死者と向き合うかが抜け落ちているように思います。理屈もなにもいりません。そういう風に一個人として死者と向かい合う立ち位置で靖国を考えていたように僕が思ったのはこの坪内さんの意見と、週刊新潮の6月16日号の靖国特集にあった小野田寛郎さんの意見でした。


■ 今、これを更新する時点で、東京はとてもいい天気です。何もこだわりなく、今日という日だからというのも越えて、ただ自然な気持ちで、僕は手を合わせていこうと思います。