東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『遭遇(一瞬だけ)』

■ 久しぶりに汗ばむような陽気の日中だった。なんでも30℃を越したとかどうとか。まぁしかし、真夏日と呼ばれる気温であっても、夕方になるとそれなりに気温は落ち着いたわけで、雲の雰囲気はすっかり秋の空、夜勤のために職場へ向かう頃にはすっかり陽も傾いてしまっていた。なんというか、こういった陽気も、過ぎた夏の名残のようにしかならないわびしい気分を感じたりする。気がつけば10月。もう秋だし、今年もあと3ヶ月なわけだ。


■ 週末は知人の方々が参加している芝居を観る日々を送った。計3本。劇場に足を運んだのは久しぶりで、最近はこういう風に知人が関わっている芝居しか行ってない。気になる劇団や作品が日々どこかで上演されているのだけど、ついつい見過ごしてしまう。それはともかく芝居を観るのはやはり面白い。劇場の雰囲気とかそういうものがやはりいいなぁと感じる。生の醍醐味とかいうとなんだかアレだけど、やはりそうとしか言えないものはあるようにも思う。


■ そのうちの1本、三鷹で観たスロウライダーという劇団の作品は面白かった、と思う反面、いろいろ考えるところもありました。ちょうど僕にとってはタイムリーと思われる内容の文章を書かれていた劇作家宮沢章夫さんの9月27日の日記を引用させてもらうと

『その世界では、どこかに「悪意」を持った「いやなやつ」たちが登場するが、それはむしろ、しばしばよく見る風景だ。日常的に私たちは接している。それは肯定せざるをえない。だが、それを表面に登場させず、背景に漂うメカニズムとしてきっぱり表現したのが別役実だとしたら、ここには、別役実的なメカニズムの劇からは遠くにあり、いわば長いあいだ現代演劇を支配していた「不条理劇」の、「仕組み」や「構造」ではなく、「不条理劇」が「不条理劇」であるからこそ表出していた、人物像、人間観から逃れているのを知ることができるだろう。』

これはまた別の劇団の芝居を観た宮沢章夫さんの感想ではあるけれども、いずれにせよ、こういった「悪意」のある人物が出てくる芝居というのが小演劇界を席巻しているような印象が僕にはありまして、スロウライダーもまたそういった流れの中にある印象を持ちました。宮沢章夫さんはこの文章の後に、それは松尾スズキさんから続く流れだと指摘されておられます。確かにそういった流れは松尾スズキさんが作った作品でたくさん観られた気もします。さらに僕が観た中では岩松了さんや平田オリザさんが作る作品に、「いやなやつ」はわんさかと出ていたように思います。僕が芝居を観始めた90年代後半にはこういった人間の「悪意」を描いた作品が小演劇界にはいっぱいあったように思います。


■ で、現在、松尾スズキさんの舞台を観て、影響を受けて芝居を始めた方々が、その流れを汲んで作った芝居がいっぱいあるとして、もちろんそういった流れを否定するつもりもないし、その中にはとても刺激を受ける作品が沢山あるわけですが、それでもそういった「悪意」中心の芝居からも逃れた別の芝居というのはないのかなぁと模索したい気分もあるわけです。例えば、そういったことを思うきっかけが僕にとっては小栗康平監督の映画『埋もれ木』です。あの映画にあったのは心地いい運動でした。人間の存在は映画を支える一部でしかなく、そこには悪意だけでなく善意さえ、さらに迷いや葛藤といった物語の軸になるようなものさえなく、というか人間による物語さえも存在していなかったようにも思いました。それでもそこに流れる時間に身を委ねる心地よさがあったようにも思うわけです。そういった運動が次の演劇の潮流になるかどうかはわからないし、そういったことを狙って作品を創るようなつもりはないし、というかそんな器用なことはできないけれど、とにかく「悪意」のさらに先の演劇はどうなるんだろうとかそういったことをぼんやりと思ったりしました。


■ 話はかわる。土曜の昼に笹塚で芝居を観終わったあと、17時半に新宿駅で人と待ち合わせをしており、時間を確認するとまだ余裕があったので、散歩がてら新宿まで歩いて向かった。一番シンプルな行き方は甲州街道沿いを歩くことだと思うんだけど、それではつまらないと一本入った道を歩いた。笹塚から新宿に向かう道沿いは、まだ商店街が残る町並みで、ちょっと向こうを見ると都庁がみえる図が返って不自然に感じるほどのんびりとした風景が続いている。そういった道をフラフラと歩いていると、そういった風景に似つかわしくない光景に出くわした。警官が立っている。それも100mおきに一人くらいの間隔で。延々と。さらに背広に身を包み、耳には通信機のイヤホンをはめている男たちも同じように並んでいる。それはその町並みとはかなりギャップのある光景でその場に出くわした人ならは間違いなく「何かある」と感じるのではないかと思う。新宿へ向かうほどにそういった人の数は増えてくる。そして一般市民が路上にいる数も増えてくる。なんなんだと思う。


■ すると、新宿方面から白バイに先導された、黒塗りのでかい車が数台連ねてやってきて、僕の前を一瞬で通り過ぎて行った。すれ違ったその車の中に、路上の人たちに手を振る人物がいた。その方は、次にこの国の象徴になる人物だった。あまりにも唐突だったし、一瞬ではあったけど、テレビなどで見たあの輪郭とどこか一致したように思うし、そういうことを考える前に、とにかくあの人物だと確信していた。根拠はなかったが、おそらく間違いない。


■ この道をそのタイミングで通ったことに何かしらの運命を抱くことは意識しすぎだというのは自分でも判っているのだけれども、それでもやはり「遇ってしまった」という偶然になんらかを思わずにはいられない。どうしたって僕とその人の距離が最接近した瞬間だったわけで。「見れたねぇ」となんだか有難がっているおばあちゃんの集団の横を通り過ぎながら、そういった気分とはまったく別のなんとも言えない気分で新宿に向かって歩いていた。