東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『東京駅小咄』

■ 諸事情があり封筒が必要だったが、手元になかったのでコンビ二で購入した。必要な封筒は一枚だけなんだけど、だいたいの封筒はバラ売りなどされておらず親切にも20枚ほどの束で売っている。まぁたいした金額がじゃないから気にしないんだけど。やっかいなのは使っていない封筒がどんどん溜まることだ。1枚を使うがために不要な19枚を手元に残すことになる。封筒を使う機会が頻繁にあるような身分じゃないので、それらは滅多に減らない。で、次に何かの機会で使うときずいぶん時間が過ぎてしまっているので封筒の在庫があったことをすっかり忘れて、また購入してしまう。ふと気が付いたらとんでもない数の未使用の封筒がある。どうしたものかと思う。


■ 昨日の仕事後、東京駅で人と待ち合わせをしていた。東京駅に隣接している遠距離バスのターミナルはずいぶんごった返している。神戸や大阪、四国や茨城。いろんな場所へ行くバスが所狭しと並んでいる。週末を東京で過ごした人たちが帰るのか、それともこれからいろんな場所に遊びに行く人たちなのか、老若男女問わずいろんな人がいる。僕は待合ロビーというのが好きだ。いろんな人がいて、いろんな表情がある。いろんな旅の始まりや終わりを勝手に想像するのがとても楽しい。


■ 東京は特に新幹線の玄関口でもあるので、構内にもたくさんの人がいる。たくさんの人々の一人一人にそれぞれの旅があるのだと思うとなんだか途方にくれる気分になる。東京駅の歴史を調べてみるととても面白いことがわかる。東京駅が完成したのは大正3年(1914年)だ。実はこれ、山手線の中ではほぼ最後。品川や新橋が明治5年(1872年)創業であるからその40年以上もあとだ。明治30年ごろには埼玉の浦和や千葉の柏、津田沼、東京の立川や日野なんかも既に存在していたことを考えると東京駅がそれよりも新しいというのがなんだか変な気がする。しかしここにはとても面白い理由がある。


■ 明治の半ばには鉄道がほぼ全国を網羅したが、北上するのは上野駅からの東北本線上越線で、南下するのは新橋からの東海道本線だった。新橋と上野はいずれも都心部をさけて東京の周辺部に位置していた。時の内務省幹部たちは、それを一本につなぎ、名実共に鉄道によって日本列島を一つにしようと考えていた。そして提案されたのが東京駅の建設である。これは実に興味深い。それまでも数々の幕府によって日本は統一されていたが、線路というまさに目に見えるもので日本中を一つに繋ぐということはなかったわけだ。その当時の内務省ら国政を担っていた人々にとって目に見える形での全国統一は、成さねばならなかったことなのかもしれない。一刻も早く新しい時代がきたのだということを国民にアピールしたかったわけだ、しかもものすごいわかり易いかたちで。そういったわけで上野と新橋の中間地点に東京駅が作られる。それは当初、本当に中間地点だったからという地理的な理由だけで選ばれた。そこが皇居の目の前であるという偶然。実は皇居と東京駅の関係もいろいろ調べてみるとさらに面白いことがあるんだけど長くなるので割愛。これも『東京スタディーズ』に載っているのでよろしければそちらを読んでください。


■ なんにせよ、そうやって日本統一の象徴として建設された東京駅は、昨日も数多くの人々に利用されていた。だれもがそんなことを意識せずにここから日本のいたるところへ旅立っていく。ちなみに山手線が今のように環状になってつながったのは大正14年。東京駅完成から11年後のことだそうです。


■ 東京で約束していた人達と会い、食事しながらいろいろ話す。とても刺激的で面白かったのだけど、おかげで体調は回復していない。熱はでていないんだけど喉が尋常じゃない痛さだ。しゃべるのも億劫になってくる。で、変な頭痛がする。どうもいけない。長引きそうな不安に駆られる。