東京から月まで

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埼京生活『いろいろ考えるためのメモ〜演劇の起源について〜』

中沢新一さんの本を読んでいてつくづく「生」と「死」が表裏一体というか、「死」がすぐそこにあるからこそ生命が豊かになるということがわかってくるんだけど、最近まったく別の本で同じことを読んだのでした。それは福田恒存さんの『演劇入門』という本です。そのなかで福田さんは演劇の起源にも生と死の関係が関わっているということを書いています。メモとしてそのことを自分なりにまとめた文章を以下に書きます。興味のある方だけ読んでみてください。


■ 演劇の起源について考えたいのですが、僕が参考にしたのは劇作家で批評家の福田恒存氏の『演劇入門』(玉川大学出版部)であります。演劇の起源(ここでは歌舞伎や能といった古来から伝わる芸能を除外した新劇の起源を指しますが、以後も演劇と表記させて頂きます)はギリシヤ劇であると述べております。

『ギリシヤ劇はアイスキュロス(前524〜456)、ソフォクレス(前496〜406)、ユウリピデス(前485〜407)という三人の代表的な劇詩人のわづかに残つた作品によつて、そのおもかげをしのぶことができるしだいですが、それらはすでに演劇芸術として確立した形式と内容とをもつてゐるもので、その起源となると、もつとさかのぼらなければなりません。すなはち、いまだ演劇とはいひかねるもの、そしてそこからギリシヤ劇が発生してくる地盤、それはなんであるかが問われねばなりません。それはディオニュソス祭礼のディテュラムボス合唱歌であります。』

ディオニュソス神といふのは本来のギリシヤ神ではなく、北方の蛮族の生成神であったそうです。それがギリシヤ演劇の生れたアッティカ時代のごく初めにギリシヤ本土に侵入して、ギリシヤ全土を席巻してしまい、至る所でディオニュソス祭礼が行われたそうです。


■ もともとアポロ的な明哲をこのむギリシヤ神を好むギリシヤ人達は最初、その騒擾と猥雑に抵抗したそうです。それでもディオニュソス祭礼は広まった。なぜか。それはディオニュソス神が酒の神で、生殖の神だったからだそうです。

ディオニュソス祭は、狂喜乱舞の祭礼であり、民衆の内にひそんでゐた生命のはけ口であつたのです。』

それらは農作業から開放される秋、収穫に感謝しつつも、冬の繁殖に向かう季節にしたがって、いままでの枯死の冬に抑圧されていた人間の生命力の爆発をうながすものであり、労して報いられぬ退屈な日常の仕事からの解放をなさしめるものだったそうです。蛮族の神であっても、ディオニソス神を奉って歌い踊ることで、かつてのギリシヤ人たちは厳しい自然環境の中を生きてきたのでしょう。


■ どういった形式であれ、福田恒存氏は演劇の起源をディテュラムボス合唱歌という歌として定義しており、それは狂喜乱舞の祭礼でありました。なんでこういったにぎやかな祭りと死の話しばかりのギリシヤ悲劇が結びつくのでしょうか。本の続きで福田さんはそのことに触れています。割愛しながら、引用させて頂きます。

『ところで、このような生の賛歌に関する行事が、どういうわけでギリシヤ悲劇のような沈鬱な芸術を生んだのかということに、読者は疑問を持つに違いない。
(中略)
初期、ないし全盛期のギリシヤ悲劇においては、主人公はことごとく壮大な英雄的人物であり、しかも最後はその悲劇的な死や追放によって終わるのです。
(中略)
当時の詩劇人たちは悲劇三部作とともに最後にサテュロス劇といふのを付加して四部作となし、毎年ディオニュソス祭礼に提出しました。』

サテュロス劇とはディテュラムボス合唱歌と同様に生の賛歌を歌うものでありました。つまり、この祭りのプログラムを考えると死や冬、生命力の喪失を連想させる悲劇が三作続いた後に、生や春を、新しい生まれ変わりを想像させる生の賛歌であるサテュロス劇が続いており、それらの四部作の形で一つのものとして作られていたのです。三部作の悲劇はその後に行われる生の賛歌のために、むしろ徹底的に死を見つめなければならなかった。それを通り越して賛歌を歌うからこそ初めて、「再生される生の悦びを獲得できた」のです。いずれにせよ、ギリシヤ悲劇の目線は「死」を見つめながら、その先に確実に「生」の存在を見据えていたのです。ただ、四部作目にあたる生の賛歌は、狂喜乱舞の舞踏劇的なるものであって、それゆえに今日までその形式が伝わらず、悲劇の部分だけが戯曲の形で残っているのでそれだけが突出して、ギリシヤ時代では悲劇の部分ばかりを作っていたと思われてしまったのではないかと福田氏は語っております。


福田恒存氏の文章をさらに引用させてもらいます。

『ギリシヤ劇にまで完成を見た四部作においては、老いたる年の王の苦悶と死とを扱つた部分の方がはるかに長く、サテュロス劇は短かつたのでありますが、それは劇場だけのことであつて、その後はどうだったか−おそらく、その日は、観客たる市民たちは、サテュロス劇のあと、劇場から流れだして、夜を徹して騒ぎまはつたのではないかとおもはれます。』

 
 死を見つめた先に、生を祈る。それが劇場に留まらず街にまで至る。『死』や『終わり』といったことに近いものを劇場で体験して、劇場をでたあとに『死』から開放されて『生』を謳歌する。その一例が今で言うところの打ち上げに近いのかもしれません。確かに劇場をでて、外で酒を飲み、いろんな人としゃべることは本当に面白い。そういった一連のことを含めて演劇体験なのではないでしょうか。


■ 演劇の起源がそういう『生』と『死』の構成。悲劇と歌や踊りの四部構成であるということを友人に話したら、その友人が「マツケンサンバとか宝塚みたいだね」と言っていました。確かにベテラン芸能人による新宿コマ劇場での特別公演なんかは劇と歌の二部構成だ。宝塚も悲劇の物語のあとに歌による締めが存在する(らしい)。こういったプログラムの起源がいつどこなのかは分からないが、偶然にもギリシヤ悲劇四部作の流れを汲んでいるように思う。だからといって特別公演的なものの全てを肯定するわけではないが、思い起こせばマツケンサンバという生の賛歌は大晦日という一年の終わりの日に紅白歌合戦というまさにお祭りの場で、新たなる年明けと新しい生命への蘇りを祈って高らかと歌い上げられた。あれがあそこまで民衆を夢中にさせていたのは無意識のうちにそういう生と死という精神性が働いたからなのではないか。


■ で、思うことは今、悲劇三部作が描かなくてはならない『死』や『生の衝動』といった部分こそ、演劇は考えなければならないのではないかということ。マツケンサンバに生の賛歌をみることはかまわない。だけどではその前段階である悲劇の部分を見つめることに今の演劇は疎かになってはいないだろうか。オウム事件、関西大震災、9・11、そしてイラク戦争。現実は否応なく、それ以前の時代とは違う、何が起きてもおかしくない状況になっている。この辺のとんでもないことに対していろんな場所で思考停止状態が続いている気がする。もちろん演劇も。特に僕が観る最近の同世代の芝居の多くにに感じる「軽さ」は、「いま、ここ」という観念が「ない」ことに関係しているのではないかなと思う。こんな時勢だからこそ、演劇に可能な物語があるのではないか。かといって硬直した芝居を作りたいわけではないし、かしこまったものを作りたいわけではない。くだらないことだけでもいいんだろうし、僕だっていろんなものを観て笑えれば楽しい。だけど現在起こっているあらゆる事柄が舞台上では「ないこと」になっているのはやはり面白くない。全てが等価で存在している舞台を作りたい。それはやはり「いま、ここ」を見つめて舞台に乗せるところからしか始まらない気がする。では、それはどういうものなのか。最終的には具体的な方法論に至るわけだけど、そこはまだ判然としない。難しいなぁと思いながら、そういうことを考えることが今はとても楽しかったりする。


■ 長々と書いてしまった。僕はすぐに身体が硬くなる癖がある。やわらかくいきたい。しなやかにものを考えることで「いいなぁ」と思うものは生れるのだと思う。