東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『カーニヴァル化する社会』

■ 昨日が雨で、今日急に気温が上がったからか、ずいぶんジメッとして暑い一日だった。晴れているはずなのに意外と洗濯物が乾きにくいし、いよいよ夏が来ている感じだ。


■ 昼間に図書館へ行く。まだ途中までしか読んでいない福田恒存さんの『演劇入門』(玉川大学出版)を返却。かなり滞納。いずれまたゆっくり読みたい。


■ で、ついでに文学界の最新号である七月号を手に取る。と、松尾スズキさんの中篇小説『クワイエットルームにようこそ』が掲載されていて思わず読んでしまう。精神病院に入院することになった女性のお話。一緒に入院している患者とジグソーパズルを作るくだりになんだか乾いているのにやさしい視線を感じる。ゼロだったはずのものをゼロに戻すだけ。それでもせっせと作る。しかもパズルの絵はメビウスの階段の絵(有名なものらしく、僕もぼんやりとは思い出せるけど名前は出てこない)なのが、なんとも皮肉というか。松尾さんの視線はそれも人間なんだと肯定している気がする。あと、なんだかコンパクトで歯切れのいい文章が心地いい。


■ 他にも中原昌也さんの短編や高橋源一郎さんの連載も興味深い。茂木健一郎さんの連載『脳のなかの文学』が最終回だった。とても好きな連載だったので、これを機会にもう一度読み直してみたい。こういうとき、バックナンバーを保管してくれているので図書館は有難い。


鈴木謙介さんの『カーニヴァル化する社会』読了。とても興味深い示唆が書かれていたと思うけど、まだ自分の読み込みが浅いのか、きちんと言葉にまとめられない。もう何度か読み直してみたい。


■ ただこの本を読んでいて思い出したのは、一昨日池袋で会った友人と話したこと。その友人はヤクルトスワローズが好きでよく神宮球場に応援に行くらしく、交流戦も観戦しており、ロッテ戦も行ったのだそうだ。で、僕が「ロッテの応援団は紳士なんでしょ?」とニュースで報道していたまんまのことを聞いてみると友人はそんなことはなかったと言っていた。


■ 友人によるとちょっとしたプレーで野次を飛ばしたり、地団駄を踏んだり、応援のスタイルがそれまでの野球のものとはかなり違うらしい。どっちかというとサッカーの応援のような雰囲気らしい。で、その辺に往年のロッテファンと今年のロッテの勢いに反応して加わった新しいファンとの間で食い違いが生れているとのこと。まぁその辺は友人の話だけなので、断言できるものではないのかもしれないけれど、印象的だった一言が「本当に野球が好きで応援している人が増えたって言うより、応援したいだけの人が増えてるんだよ」というもの。


■ つまりところただ盛り上がりたい(騒ぎたい)という人が増えているのではないだろうか。この傾向はサッカーや他のスポーツでも観られるけど、特に顕著なのは国際試合だ。たとえばサッカーでワールドカップ予選を注目する人々は多いが、国内のJリーグは全国放送がほとんど行われていない現状。柔道や水泳などはオリンピックではあれほど騒がれるのに同じ選手が参加していても国内試合やちょっとした国際試合ではほとんどがニュースで結果しか報道されない。それはバレーボールも同様。しかしいざ、注目をあびるイベントがあるとここぞとばかりに「日本コール」を繰り返す集団が会場を埋め尽くし、過熱報道が連日繰り返される。


■ この辺の奇妙な盛り上がり方をして「実は日本人はスポーツが好きなわけではない」と評した方がいたが僕にはわりと的を得た意見だと思えた。無論、これは本当に好きな人からすると心外な意見だろうし、あらゆる人に対して言えることではない。ただ国内のどのチームに所属してるかも分からずに、日本代表サッカーチームが勝ち負けだけを騒ぐ一部の、そして結構多いそういう人々のことを見事に言い表していると思う。


■ 結局、スポーツが本当に好きではない人たちにとってスポーツは騒ぎやすいイベントの一つに過ぎないのではないか。日本チームが勝ったら酒を飲み、騒ぐ。阪神が勝ったら道頓堀へダイブする。メダル獲得数が多ければ嬉しくて騒ぐ。結局のところ重要なのは、最後に騒げるかどうかということになるのでは。もちろん別にそういったことを否定するわけではないし、僕だって日本代表が他の国に勝ったとき、やはりうれしい気分になったりする。ただ本当にそのスポーツが好きならばどの国のどの選手がどうとか、勝ち負け云々以前に、特権的な身体を持つ選手による美しい運動の奇蹟を目撃することそれ自体がスポーツ観戦の悦びになるのではないかと思うが、日本のスポーツ報道でそういった視点からのスポーツ報道はそんなに多くない。結局勝ち負けやホームラン何本達成とかそういう数字化された軌跡だけが報じられる。そしてそれ以外の報道はあまり望まれていない気がする。まぁそれもスポーツ観戦の楽しみなのだろうけど。


■ そういった『騒ぎ』が他にもいろいろなところで顕在化している。『カーニヴァル化する社会』その例としてイラクの人質への自己責任バッシングや北朝鮮拉致被害者へのバッシングなどを挙げながら、そういった社会や自己について検証している、ように思う


■ 僕が結構気になるのは、その騒ぎ方が非常に安易でかなり割り切っているように思えるところだ。自己責任問題のバッシングや北朝鮮拉致被害者へのバッシング、今では靖国参拝の是非とかに関しても至る所(週刊誌、報道番組、ネット等)で論争があがり、その度に右翼が増えただどうだといったことが言われるけど、おそらくそんな政治的な意志があって発言している人はそう多くないのではないか。大半の人はそういった問題と若・貴確執どっちが悪いとか、中田は代表に必要か否かとかを同列で扱っているのではないか。つまりそれらの話題もまた盛り上がれるかどうかが重要になっているだけで、結果どうなろうとその渦中の言い争いや揉め事が騒がれて騒ぐだけ騒いでお仕舞いという人が増えているのではないか。


■ 繰り返しになるけどそれは日本代表サッカーチームはあれほど応援するのに国内サッカー戦には見向きもしないということも同じに思える。松井のホームランや打率に関心を持てても、ヤンキース以外の大リーグのチームを知っていて、他のメジャーリーグの選手を夢中で追いかけている人はどれほどいるだろう。


■ で、怖いのは熱しやすく冷めやすい、語呂遊びをすれば醒めやすいことだ。そういった熱狂的に騒がれたことが結果を重視されずに時間が過ぎれば綺麗さっぱり忘れ去られるということ。たとえば、SARSはどうなった。多摩川のタマちゃんの行方を気になっている人は今でもいるのか。なんなら風太くんでもいい。この名前でレッサーパンダだとすぐに思い出せない人ももういるのではないか。狂牛病で日米関係を日々気にしている人はどれだけいるだろう。で、思い出したように報道されると「ああ、そんなことあったね」とノスタルジックに語られてすぐに終了する。


■ 騒ぐことは悪いわけじゃないと思う。ただそれ以上進まない。騒ぐだけ騒いで終了する。思うにそこで思考停止する人が多いのではないか。だからマニアックになるまで追求する人が増えない。騒ぐときは騒ぐけど、普段の生活は普段の生活で割り切っている。切り替えがいいといえばそれまでなのかもしれないけど、そうやって騒ぐ光景を見るにどこか「軽さ」だけしか残らない。そういった軽さだけの勢いで何か大きなことが決められてしまったとき本当に危険な方向に進みかねないのではないか。


■ それは僕自身にも言えることで、何かの問題に直面したときどこか短絡的に騒ぐだけで終わっていること(思考停止)があるのではないかと考えてしまう。


■ うまくまとめられないまま、長くなってしまった。こういうことを短く言葉にできるようになりたい。


■ 話は変わって、私は日曜から大阪へ行きます。29日まで。同級生の結婚式に参加したり、Yしゃんに会ってきたりします。この日記もその間お休みです。せっかくの関西。楽しいことになれば素敵です。


■ そんなことを『虎の門』の第10回しりとり竜王戦を見ながら書き連ねる。『小麦粉と戦争』ってなぁ。確かにそんなタイトルの絵本があったら気になるよ。見てない人にはわけがわからないだろうけど。