東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『名前があること』

■ ロンドンで起きた出来事を昨夜の23時頃にテレビで知った。それからしばらくその事件に関連するニュースを見て感じた違和感は、あらゆる場所で様々な人が口にする「テロ」という言葉だ。あまりにも頻繁に使われている。


■ ヤフーの辞書でテロを引くと、テロはもともとはドイツ語のTerror(テロル)という言葉が略されたものだそうだ。日本語訳は『《恐怖の意》暴力行為あるいはその脅威によって、敵対者を威嚇(いかく)すること。恐怖政治。テロ。』とあり、そういう意味ではこのロンドンの出来事はこれに該当するのかもしれないけど、ただ、まだ犯人が断定されていない以上、『敵対者を威嚇する』行為と認識するのは違うのではないかという気にもなる。「敵」とは誰なのか。そもそもその人物や集団は「敵」という対象なのか。


■ 言葉というのは人々が直面する出来事を共通認識として定めるためのもので絶対的なものではないと思う。固有名詞は別として。例えば僕が口にする「暑い」は別の誰かが口にする「暑い」とはニュアンスが違うかもしれない。しかしそれを徹底的に細かく区別するのが非常にめんどうくさいし、そんなことをする必要がないので、そういった感覚に近いことは全て「暑い」という言葉に換言される。だから、つまり、こういう言葉が適当なのかわかんないけど、言葉は感覚を表すための平均値でしかない気がする。


■ 昨日、いろんな国の大統領からニュースキャスターまでが口にした「テロ」という言葉は先に引いた平均値としての意味を超えた別のもののように思えてならない。


9・11が起きたその瞬間、あの光景を見たさまざまなメディアや人々はその言葉にならない出来事をどうにか言葉にしようと模索していたと思う。それはオウムの地下鉄サリン事件の時もそうだ。あの2つの出来事はそれ以前の(大袈裟に言って)歴史の中で(現在生きている)人々が直面したことのない出来事だったのではないか。そういった判例の無いどうしようもない出来事をどうにか言葉にしようとした結果、出てきた言葉が「テロ」だったのではないか。


■ もちろん今回の出来事は許されるべきことではないと思う。だけど今回の出来事を直結して「テロ」という言葉で言い表すことになんだか抵抗を感じる。かつてあった「テロ」という言葉と9・11以後に使われる「テロ」という言葉はきっとまったく異なるものだ。それは「テロ」という言葉にすでに辞書で使われる意味以上の別の意味(それは思想のようなもの)が付随しているのだと思う。その「新しく」作られた『テロ』という言葉を昨日の報道ではなんだかずいぶん安直に使っているような気がする。


■ 名前がつけられるということでほっとすることがあると以前、どこかで誰かが言っていた。名前があるということは前例がある。だからそれは未知のものではない。未知のものほど怖いものはない。自分が直面した出来事に名前があるとどこかホッする。だから今回のように処理しきれないようなどうしよもない事態が起きても、ある程度なら「テロ」という言葉でくくってしまうことで、どこかほっとしてないだろうか。

「何か起きる」→「原因が分からない」→「理解できない不安」
「何か起きる」→「テロと決める」→「テロは許せない」→「テロと闘う」

この構図。それはそれでひとつの道筋だとは思うけど、「テロ」と言葉にしてしまった時点でそこに存在する「言葉にならない不安」から逃れていないだろうか。

■ きっと世の中で起こるいろんな出来事は、似たようなことがかつてあったとしても、それらはすべて単一の未知のもののはずではないか。名前をつけて類似を探して収まってしまうことは、真正面からその出来事と対峙することを避けているようにも思う。


■ それはそれとして、なんだか怖い世の中だ。いつの間にか『テロ』は当然のように存在する出来事になってないか。テロという言葉が使われるたびに世界の危機レベルの平均値が上昇しているような気になる。


■ お偉方が「テロ」に屈しないと口にする。対立する相手を「テロ」という言葉でくくっているうちはこの対立は解消されないのではないか。大体相手と仲直りをしようと思うのなら「テロ」という言葉を相手に使うだろうか。そもそもお偉方たちは「テロ」の対義語として自分たちをなんという言葉で語るのか。それが「正義」であるのならば、やはりこの問題は「そう口にしてしまう限り」解決しない気がする。


■ 「テロ」と同様に「正義」もなにかの平均値でしかない。それはきっと人によって違うわけでひとくくりではいかないもの。最終的には一人称(私)の「なにか」と一人称(あなた)の「なにか」の違いを認識することこそが必要なのではないか。


■ 「正義」や「テロ」という言葉でひとくくりにせずに、「わたし」が「あなた」に言葉を投げかけることはこの世界ではもはや不可能なのだろうか。

■ ロンドンで起きた出来事を昨夜の23時頃にテレビで知った。それからしばらくその事件に関連するニュースを見て感じた違和感は、あらゆる場所で様々な人が口にする「テロ」という言葉だ。あまりにも頻繁に使われている。


■ ヤフーの辞書でテロを引くと、テロはもともとはドイツ語のTerror(テロル)という言葉が略されたものだそうだ。日本語訳は『《恐怖の意》暴力行為あるいはその脅威によって、敵対者を威嚇(いかく)すること。恐怖政治。テロ。』とあり、そういう意味ではこのロンドンの出来事はこれに該当するのかもしれないけど、ただ、まだ犯人が断定されていない以上、『敵対者を威嚇する』行為と認識するのは違うのではないかという気にもなる。「敵」とは誰なのか。そもそもその人物や集団は「敵」という対象なのか。


■ 言葉というのは人々が直面する出来事を共通認識として定めるためのもので絶対的なものではないと思う。固有名詞は別として。例えば僕が口にする「暑い」は別の誰かが口にする「暑い」とはニュアンスが違うかもしれない。しかしそれを徹底的に細かく区別するのが非常にめんどうくさいし、そんなことをする必要がないので、そういった感覚に近いことは全て「暑い」という言葉に換言される。だから、つまり、こういう言葉が適当なのかわかんないけど、言葉は感覚を表すための平均値でしかない気がする。


■ 昨日、いろんな国の大統領からニュースキャスターまでが口にした「テロ」という言葉は先に引いた平均値としての意味を超えた別のもののように思えてならない。


9・11が起きたその瞬間、あの光景を見たさまざまなメディアや人々はその言葉にならない出来事をどうにか言葉にしようと模索していたと思う。それはオウムの地下鉄サリン事件の時もそうだ。あの2つの出来事はそれ以前の(大袈裟に言って)歴史の中で(現在生きている)人々が直面したことのない出来事だったのではないか。そういった判例の無いどうしようもない出来事をどうにか言葉にしようとした結果、出てきた言葉が「テロ」だったのではないか。


■ もちろん今回の出来事は許されるべきことではないと思う。だけど今回の出来事を直結して「テロ」という言葉で言い表すことになんだか抵抗を感じる。かつてあった「テロ」という言葉と9・11以後に使われる「テロ」という言葉はきっとまったく異なるものだ。それは「テロ」という言葉にすでに辞書で使われる意味以上の別の意味(それは思想のようなもの)が付随しているのだと思う。その「新しく」作られた『テロ』という言葉を昨日の報道ではなんだかずいぶん安直に使っているような気がする。


■ 名前がつけられるということでほっとすることがあると以前、どこかで誰かが言っていた。名前があるということは前例がある。だからそれは未知のものではない。未知のものほど怖いものはない。自分が直面した出来事に名前があるとどこかホッする。だから今回のように処理しきれないようなどうしよもない事態が起きても、ある程度なら「テロ」という言葉でくくってしまうことで、どこかほっとしてないだろうか。

「何か起きる」→「原因が分からない」→「理解できない不安」
「何か起きる」→「テロと決める」→「テロは許せない」→「テロと闘う」

この構図。それはそれでひとつの道筋だとは思うけど、「テロ」と言葉にしてしまった時点でそこに存在する「言葉にならない不安」から逃れていないだろうか。

■ きっと世の中で起こるいろんな出来事は、似たようなことがかつてあったとしても、それらはすべて単一の未知のもののはずではないか。名前をつけて類似を探して収まってしまうことは、真正面からその出来事と対峙することを避けているようにも思う。


■ それはそれとして、なんだか怖い世の中だ。いつの間にか『テロ』は当然のように存在する出来事になってないか。テロという言葉が使われるたびに世界の危機レベルの平均値が上昇しているような気になる。


■ お偉方が「テロ」に屈しないと口にする。対立する相手を「テロ」という言葉でくくっているうちはこの対立は解消されないのではないか。大体相手と仲直りをしようと思うのなら「テロ」という言葉を相手に使うだろうか。そもそもお偉方たちは「テロ」の対義語として自分たちをなんという言葉で語るのか。それが「正義」であるのならば、やはりこの問題は「そう口にしてしまう限り」解決しない気がする。


■ 「テロ」と同様に「正義」もなにかの平均値でしかない。それはきっと人によって違うわけでひとくくりではいかないもの。最終的には一人称(私)の「なにか」と一人称(あなた)の「なにか」の違いを認識することこそが必要なのではないか。


■ 「正義」や「テロ」という言葉でひとくくりにせずに、「わたし」が「あなた」に言葉を投げかけることはこの世界ではもはや不可能なのだろうか。