東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『度数20の会話』

■ 昨日の仕事後、池袋から地下鉄に乗って小竹向原という駅へ。知人が出演している芝居を観に行く。と、道すがら「まっちゃん」とかなりフランクに声をかけられる。聞き覚えのある声に振り返ると4月の芝居でご一緒させていただいたU.さんがいた。なんでも僕が観にいく芝居の制作のお手伝いをしているとのこと。それにしても東京のある一部の芝居の世界は狭い。どこかで誰かが繋がっている。健全なんだか不健全なんだかよくわからない世界だ。


■ 音に関する演出が気持ちいい芝居だった。ラジオの音とか、声だけをスピーカーから流すとか。音をうまく使っている芝居にくすぐられる。役者さんもなんだか魅力のある人が多かった。


■ 芝居を観終わってからそそくさと帰途へ。自転車で帰っていると、コンビ二に付随している公衆電話の前に3人の女性がいた。気になったのは彼女らがパジャマ姿で公衆電話を囲んでいたこと。自転車で通り過ぎただけだから詳しくは判らなかったけど、彼女たちは日本語ではない言葉でおでこがぶつかり合うぐらい受話器口に顔を近づけて、楽しそうに向こう側の相手としゃべっていた。


■ おそらく日本人ではない人たちが、就寝前に国内にいる別の友人にでも電話をしているのだろうか。とにかくずいぶん楽しそうなことだけは確かだった


■ 携帯電話が普及してから「電話をする」ということがなんだかずいぶん変わってきている気がする。思い出せば、僕も大学1年生の頃は、寮に備え付けられていた公衆電話からたまに実家に電話をかけていた。テレホンカードの度数は意外と早くなくなる。しゃべることといえばたいしたこともないような近況で、母親からは決まって「身体は大丈夫?」と聞かれる。僕は「大丈夫」と言って「それじゃ」と電話を切る。ピーピーと電話が音を立ててテレホンカードが飛び出してくる。テレホンカード度数20程度の会話。あの頃、公衆電話から「電話をかける」というのはそれがたわいもない会話であれ、なんだか特別な行動だったように思う。携帯電話の便利は不便を解消して、そして抹消してしまったように思う。あの感覚はもう戻らないのかもしれない。


■ その場面を通り過ぎてから、ぼんやりそんなことを考えていた。ふと見上げた空には満月があった。夏の空、まんまるの月。