東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『他人との距離感』

■ 夜勤明け、秋葉原駅から乗り換えのために駅の中を歩いていたら、ふと誰かに呼び止められた。


■ 呼び止めたのはまったく見知らぬ男の人で、年齢は不詳。まだ未成年といわれても納得いくし、逆に30代もしくはそれ以上だといわれても違和感はない。少々太めで、Tシャツに短パンという風体で、今から思うと風来の画家「裸の大将」っぽい。で、正直あまりきれいな格好をしておらず、どこか胡散臭い。


■ その大将は僕に言った。「財布を落としてお金がなくて家に帰れなくなりました。900円貸してもらえませんか」。そう言われて、僕はなんともいえない感覚を覚えた。


■ こういった場に出くわした経験がないので、どう切り出していいのか分からず、とにかくどこから来たのかを訊ねた。大将は東武東上線のどこから(聞き取れず)だとか答えて、何時に秋葉原に着たのかと聞いたら朝の7時頃だと答えた。僕が大将に会ったのが11時過ぎだから、大将の話を鵜呑みにするとかれこれ4時間ほど大将は駅の中で途方にくれていたことになる。


■ 僕はそれ以上聞かずお金を渡した。細かいのがなかったので千円札を出した。大将は「お金を送りますんで住所を教えてもらえますか」と言ったが、なんとなく断ってそのかわり「必要があればこちらから連絡をするので」と言って名前と携帯番号を教えてもらった。大将は『イトウ』と名乗った。


■ 正直、「どうにも怪しい」わけでして。何よりも僕が聞いたいくつかの質問への答え方が非常に流暢。こういった手口で小銭を稼ぐ奴がいるとか聞いたことがある。つっこみどころはいくらでもあり、例えば東武東上線池袋駅から出ている路線であり秋葉原は池袋とは山手線でほぼ真逆の位置にある。本当にお金がなくて困っていたとして、どうしてとりあえず行ける池袋駅まで行かないのかが分からない。4時間も駅の中で見知らぬ他人にお金を貸してと頼むというめんどいことを続けるのも疑問。本当に困っているのなら駅員に事情を説明すればいい。なんなら持っている携帯電話で知人や身内に助けを求めればいいわけだし。


■ 僕としても、今から思えば、駅員のところに一緒に行ってあげるとか、警察に一緒に行ってあげて事情を説明してあげるとかが、とりあえずの無難な対応だったのかとも思う。


■ ただ、まぁイトウ大将が本当に困っていた人で無事に家に帰りついてたとしても、はたまたうまいこと僕をアレしてそのまま秋葉原の街へ繰り出し900円なりの満足を満たしたとしても、正直どうだっていいと思った。それ以上に今回の件で思ったことは、大将を目の前にしたときのあのなんともいえない感じをどう捉えるかということだ。


■ 風体の怪しさや頼みごとの質はもちろん大いに影響している。少年少女やご年配の方、はたまたきれいな女性とかなら、またただ単に道を聞かれただけとかならば、あの時感じたような気持ちにはならなかったかもしれない。僕は間違いなく大将を『疑った』わけで、『金銭』が関わったことでそういう気持ちがより一層強くなったのだとも思う。だけど、まぁそういった疑いだけであの妙な感じを持ったかというと、なんだかちょっと違う気がする。それでいろいろぼんやり考えて、この世の中っていうのは僕と数える程度の血族や知り合いと、その他はまったくの無関係な他者によって成り立っているという、当然のことを改めて実感したわけです。


■ 家を出てしまえば、周りにいる人はほとんどが僕の知らない他人だ。驚くほどの人が世の中にはいるが、そのほとんどの人同士はまったくの他人なわけだ。満員の電車の中も、映画館の中も、新宿も東京も、その他の場所も。あれほどの溢れる人の中を何も考えずに街を歩いて、会社に行って、映画に行っているのは、他者はいつまでも他者のままだと無意識に思っているからで、その無関係さに僕は安心しているからだろう。外に出ているとはいっても、精神的なパーソナルスペースというものがあり、その領域を侵されないように、で、他者の領域も侵さないように日々を過ごしているのだ。


■ だから不意に無関係だったはずのイトウ大将という絶対的に他者な存在が僕の目の前にあわられた時、それは相手が善意のものであれ、悪意のものであれどんな人であれ、僕にとってはその人は僕の領域に侵入してきた「侵略者」とも言えるのかもしれない。


■ 驚いた。僕は結構外に出ている方だけど、だからって本当に外部にいるわけではないのだ。さっきも言ったけど、家から目的のある場所に向かうだけならば、まったくの他者に僕の領域はまったく侵されないことの方が多い。それって当然のことだけど、今回の件で改めて、実感した。「書を捨てよ、街へ出よう」だけど、ただ単に街へ出るだけでは外部と接触するわけではない。外にただ出るだけではそのきっかけを得る可能性があるというだけで、本当の意味で街へ出ていないのかもしれない。


■ 僕が、僕から意図的に他者の領域に入らなくては外部にはたどり着かないわけだ。でも、だからっていきなり他者の領域に侵入するのは難しい。例えばインターネットはそういったコミュニケーションの新しい形態を提案してくれた。僕は、僕の憧れる人がネット上でいろいろなことを公開していればそれを見ることが出来る。はたまた僕の知人がブログをしていればそれを見ることが出来るし、まったくの未知の方のブログをみれば、その人の考えていることを知ることが出来る。やったことはないけどチャットなどでは意見も交わせるわけだ。だけど、そこは他者が許容している範囲内での介入しかできないわけで、それ以上の関係は生れない。例えば未知の方のブログを見てその方の考え方は知ることができるが、僕とその方の距離感は一向に変わらない。そこには直接的な他者の領域への侵入はない。言ってみたら安全な場所での安全な距離感だ。だからそれは直接的な関係性とはまた別の関係性として成り立つわけだ。それはそれで素敵なんだけども。それだけではやはり足りない、とも思う。


■ 僕は僕としていて、他者は他者としている。その関係がどうであろうと日々は過ぎていく。だから気にしなければそれまでで、今回のことも無難に収めることもできたろうし、イレギュラーな出来事として終わらせることもできる。善意の行為で「いいことしたな」であれ、だまされて「ああ、ちくしょう」であれ、ただそれだけで終わらせられる。でもそれじゃあつまらない。せっかくだからイトウ大将がどんなであれ、もっといろいろあればよかった。もっと他者と接することができないだろうか。僕の領域に他者が入ってきて、他者の領域に僕が入る。身体的な距離感ではなくて、かといってネット間だけで近づく距離感でもなく、もっと距離感が縮まらないだろうか。そんな関係からこそ生まれることがあるんだと思う。


■ だからきっと僕は人と会って人と話をするのだろうし、芝居に面白さを感じるのではないだろうか。芝居は絶対に他者と同じ空間を共有する。ずれを生みながらも、ひとつのものを作っていくことで見えてくるものや気づくことがある。他者の領域と僕の領域が混ざったり混ざらなかったりするその感じがきっと心地いいのだと思う。そこに喜びがあるのかもしれない。