東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『募金活動が好きじゃない』

アメリカのハリケーンが気になります。昨日、被害のあった街のいろいろなお店で盗難が発生しているというニュースを見ました。最初は命に関わる食料品や医療品、洋服などが被害にあっていたそうですが、だんだん金品宝石の類が盗まれるようになっているそうです。混乱に乗じた犯罪ですが、それに加担しているのもまたハリケーンの被害者なのです。10代の若い少年たちがテレビの前で堂々と自分たちが盗んだ靴を楽しそうに披露してました。どこに正義をみつけるべきか。命を守るための犯罪は擁護されるのか。どんな状況が人間に訪れたら「なんでもあり」な世界になってしまうのか。ハリケーンが起こした被害だけではない、もっと人間の根源に関わる問題がここにあるように思えてなりません。


■ つい先ごろ、日本テレビ系列で24時間テレビがあったわけだけど、その日街中では、その企画のひとつの募金活動がまぁいたるところでやっていたわけです。


■ で、僕は募金活動というのが正直好きではありません。一体どういう風にしてそのポジションにいるのかはよくわからないのだけど、日曜の暑い日中にショッピングモールの入り口で例の黄色いTシャツを着た高校生らしき少女二人が懸命に募金を訴えているわけです。入り口の付近にいるわけなので、当然、その店に入ろうとしたら声を掛けられるわけですが、僕は場を濁しつつスルーするわけです。まぁ申し訳ない気分も正直あります。


■ なぜにこの募金活動というものが嫌なのかをこれまでもしばしば考えたりはしましたが、それが昨日の他者との関わり方の考え方を用いるとちょっと判ったような気がしました。まぁあくまで個人的な考え方ですが。


■ 外を歩くとき、本当に無目的であれ、目的を持ってであれ、僕は自分なりのパーソナルスペースを持ちながら外を歩きます。「誰かに声を掛けられるために外に行く」という目的があって外へ出るなら話は別ですが、そういう目的で外へことはあまりないので、僕は不意に他者が僕の領域に入ることを想定していません。募金活動をする人はそこに突然現れます。つまりそれが善意のものであれ、悪意のものであれ、いずれにせよ「侵入者」なのです。で、パーソナルスペースという確固とした(そしてまったく無力な)保障の中で安全に外へ出ていたはずの僕にとって「侵入者」の出現は警戒すべきことなのです。


■ もちろんこの「侵入者」は、様々なパターンでその警戒の度合いが変わります。例えば親しい友人なら警戒はほとんどないだろうと思われます。まったく意図しないキャッチセールスならばむしろ徹底的に無視をしてやり過ごすことも出来ます。しかし募金活動をする「他者」は社会という枠組みの中でそれなりに「善いこと」と考えられている行動を後ろ盾にして不意にお金を要求してきます。


■ 僕は昨日、出来る限り他者とコミュニケーションを取りたいと書きました。ならば、募金者とも積極的にコミュニケーションをとればいいのだとも考えられますが、この場合はちょっと違います。なぜなら募金活動の人は向こうから近づいてくるとはいえ、コミュニケーションを取ろうとして近づいてくるわけではないからです。


■ 他者とのコミュニケーションの真の姿がどういうものかはまだよく判りません。だけど、少なくとも僕は、自分が考えていることについて、意見を聞きたいから人と接するのだと思います。少なくとも僕の中で何かについての考えは、まだ「決定」されてはいません。しかし募金活動者は「自分の中で決定した目的(恵まれない人のためにお金を集める)のために行動している」わけです。ちょっと極論な言い方をしてしまえば、僕とのコミュニケーションを求めて近づくわけではなく、僕を通してお金得るという目的のために近づいているのです。僕に出来ることはその目的に乗るか乗らないかだけの選択だけです。お金という明確な目的のためなら対象は僕でなくてもいいわけです。だから僕がスルーしたら彼らは次に来た人に声を掛けるのです。ちょっと露骨な言い方をしていますが、いづれにせよ募金活動は彼らの中ですでに「完結」している考えのもとでの行動なのです。だからこの時点で僕と彼らにコミュニケーションの可能性はあまりないと思います。


■ 僕は過剰に議論好きなわけではないし、募金活動の正当性を考えたいとか言っているわけではありません。この世の中のしんどい環境にいる人のために何かをするという行為は尊いものだと思います。それを否定するつもりはありません。募金活動に協賛する人は当然いるだろうし、そうやって行動する人は立派だと思います。


■ ただやはり不意なのです。僕は僕なりに判断してから行動したいだけです。その結果、例えば募金を断った次の日に結局自分でお金を寄付して「じゃあ、あの時募金しとけばよかったじゃない」と言われてもそれはまったくの別物なのです。僕が僕の判断で僕の意志で募金をするというのが大事なんだと思います。社会っていう曖昧な枠組みの中でとりあえず「善い」ことだと決められていた行いだとしても、その問題に直面したらもう一度僕なりに一からきちんと考えたいのです。


■ それはきっと遠回りなことなのかもしれませんが、とにかく一つ一つでもいいので、立ち止まって考えること。とにかくそこから始めることが大事かなと思います。