東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『同僚の欲求』

■ 台風が高気圧を運んできたのか、今日はなんだかやけに暑い。夏、ふんばってる。残暑は続く。


■ 今日の昼間、職場の人たちと外に出て昼食をとったのだけど、僕が働いているビルの入り口のところには外来者向けの受付案内として女性が座っている。僕の職場の同僚はその女性の一人が好みのタイプらしく、よく「かわいい」と言っている。まぁよくあることですな。昼食をとってからビルの戻ってきてその同僚と、その受付の女性が働いているそばを通りすぎたときに、同僚はため息まじりにつぶやいた。

「あー、タオルで彼女の頭をふきたい」

なんとも独特な欲求だ。唐突にそう言われて思わず笑ってしまった。判らなくもないけれど。


■ 「ク・ナウカ」の宮城さんの演劇論を読んでいる。いろいろな部分で刺激を受ける。特に注目したのがここ。

『演劇の最も根本的なインパクトは「言葉というものを抱え込んだ生き物が目の前で生きている」点にある』

演劇と言葉の関係だ。なにせ演劇は言葉を発する。もちろんしゃべらない部分もあるけれど、ずっとしゃべらないわけにはいかない。演劇に言葉は必要ではあるが、しかしまた言葉によって束縛も受けている。宮城さんはこう語る。

『意味の伴う言葉を、それも文字ではなく、耳から受信している時、人間の左脳はフル回転でそれを処理しています。この作業をしているあいだは、色がきれいだとか美しいメロディだなぁとかいう右脳の仕事はどうやらそっちのけになるようで、人は意味を追うことにすっかり「忙殺」されてしまいます。なぜそんなにも忙しく回転してしまうかというと、それは意味を伴う言葉は、実は一つひとつの持っている情報量 が少なく、理解の際に紛れがない(つまり0か1しかないということです)ので、発信する側も受信する側も次々と言葉を繰り出し受けとめていないと間がもたないからなのです。』

そのうえ、物語まで登場してくると、もう観客は目の前で展開される物語を追うだけで精一杯になる。なんというか、演劇と言葉の矛盾というか。必要不可欠な要素だからこそ、言葉との関係を考えなくてはいけない。いかにして言葉と向き合うか。


■ 宮城さんが「ク・ナウカ」で出した答えは、一人の役をしゃべる役者と動く役者の二人にわけるということだ。つまり二人一役。このシステムでどう言葉と向き合うかに関しては、詳しくは宮城さん自身が語る文章を読んでいただいたほうがいいと思うが、宮城さんはその二人一役のシステムを考え出したきっかけとして文楽を挙げている。僕はここに今、めちゃくちゃ共感している。と、いうか自分の中でいろいろとつながってきた感じがする。お恥ずかしいことに文楽に関してはまったくの無知なのだけど、ここから自分なりに何かを考えていきたいと思っている。


文楽ロラン・バルトの記号の国、ヴェンダースの東京画、さらに小栗康平監督の「埋もれ木」。この辺が自分の中で一つにつながっていきそうな感じなのです。