東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『ブログで書く』

■ 昨日とはうって変わって涼しい。雲の感じがなんだかもう秋だ、秋の空。それにしても気温が下がってくると物悲しい気分になるのはなぜだろう。


■ 頻繁に見ているブログや日記、サイトがある。パソコンをいじれるときは必ず見ている。そういうところに書かれている意見や日々のことは、新聞やテレビ、ニュースといった何か大きなものを背負って言葉を紡がなくてはいけないメディアのそれとは似て非なるものだ。僕にはどっちも大事。大事だけど同じようにブログなどを書いている立場としては考えなくてはいけないところもある。


■ こういっちゃうとなんだけど、僕自身あんまりブログを書くことに依存しないように気を付けている。やっぱりこういう文章や意見は、自由度がある分、魅力もあるけど、軽さがないこともない。特に僕みたいな社会的責任から逃れている立場の人のやつは。もちろん『自分』という立場の責任を取って書いているつもりはあるけれど、やはりどこか書き易さに甘えている部分はあると思う。現に誤字脱字は多いし、批判も意見も感情の赴くままを書いているだけで理論的な言及はあんまりない。文章だってモロに尊敬している人の真似から入ってるし。


■ 文芸評論家の福田和也さんがSPA!の連載の中で、作家を目指す人はブログなんかやるべきじゃないと言っていたが、これはつまり、書かれた文章が批評を受ける位置にあるかどうかが大事だってことを言いたいのではないか。ブログは性質上、誰でも閲覧可能で、誰でも配信可能だが、批評の位置には置かれない。自分が書いた文章がお金と引き換えになるという厳しい立場に置かれてこそ、文章は批評の対象となるわけで、そこで不特定多数の他者が見て、文章を評価していくからこそ、文章が鍛えられていくのだろう。そういう立場に立たず安全地帯で安心して書いてるうちは、文章を書くということが抱え込む責任や影響、その他もろもろから逃れてるってことなんだろう。まぁ既に文筆業で生計を立てている人が発信しているブログはまた当然異なる性質を持つが。


■ 僕が尊敬している劇作家の人が、批判するにもきちんとした言葉を紡げないと駄目だといっていて、僕にはそれがとても大切なことだと思う。だからヤフーの映画評価の掲示板とか見てると、作品に対する意見が、賛成であれ、批判であれとても軽く書かれてあるので、それが面白くなかったりもする。「判らなかった」「僕は嫌い」といってしまうのは簡単で、そう言葉にしてしまうともうそこから先がなくなってしまう。「なぜそう感じたのか」を徹底的に突き詰めて、言葉にしていくことが重要なんだと思う。そうやって考えていくことで「面白かった」と「つまらなかった」の単純な2言論に陥らずに、その作品を通じてまた別のことを得ることが出来るのかもしれない。


■ 大学の先輩で僕と同じようにネット上に自分が思うことを発信している人がいるが、最近更新が滞っていて気になっていた。昨日、その方からメールを頂いて、「今、あんまりうまく書けないから」という理由で更新を止めているとのこと。そういう風に立ち止まることもまた、自分の書いてるものへの疑い、「何をどう書くか」を考える意識がそうさせるわけで、安易に何かを発信して、ただ書いてそれで完結してしまわないようにするための自分なりの戦いなのだと思えた。


■ では、僕はどうするか。とりあえず僕は書き続けようと思う。書いて、そこからまた考える。考えるためにまた書く。日々、書きながら、書いて終わりではなく、自分の書いたものをまた考え直し、疑い、自己完結しないように、人と出会い、話し合い、街に出て、何かと触れ合う。そしてまたそうやっていくことで浮かび上がってくるものを有耶無耶にせず書いてみる、言葉にしてみる、という繰り返しをしていこうと思う。それが先の何かに繋がればいいと思う。