東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『二人の漫画家』

週刊現代の10/8号に漫画家浦沢直樹さんのインタビュー記事が載っていた。それによると浦沢直樹さんは中学生の頃にボブディランと吉田拓郎、そしてT−REXに影響を受け、高校でバンドを結成したとのこと。『20世紀少年』を見ているとなるほどと思うけど、やはり音楽と深いかかわりをお持ちだった。


浦沢直樹さんと手塚治虫さんはよく同列で語られている。気がする。気だけかもしれないけど。ただ『PLUTO』は手塚漫画の原作だし、本人もインタビューで手塚治虫の原作である『史上最大のロボット』や『火の鳥』にとても影響を受けたと語っているし。『MONSTER』でも手塚漫画のキャラを摸倣していると思われるキャラクターが何気に描かれているし、そう思っても差し支えは無いと思う。


■ ここからは憶測の域の話。


■ でも、二人は似て非なる存在だと思う。二人を分かつのは音楽と医学という二人が通ってきた道の違いだと思う。手塚治虫さんは周知の通り、医学博士である。浦沢直樹さんはインタビューから察してもかなり音楽と共にする生活を送っている。かなりの博識だという話だけれども、おそらく医学にまでは精通していないと思う。


■ 『俺自身は、人類の統一、人々の内なる意識の覚醒という方向にむかって、レゲエをやっている』とは今ちょうど読んでいる中上健次さんの「アメリカ・アメリカ」の中で中上健次さんがボブ・マーリーにインタビューしており、そのインタビューでレゲエについて語るボブ・マーリーの言葉だ。さらにボブ・マーリーは真実とは人の内側にあり、レゲエはその真実を見つける手助けになっていると語っている。僕は音楽について無知なので、レゲエについて語るボブ・マーリーのこの言葉を音楽全般に当てはめてしまうという愚考をしてしまうが、音楽を生業とする方には少なくともこういう思考が働いているのではないか。で、音楽を大事にする浦沢さんもまた音楽で探求し続けた真実を、漫画という手段に変えて探し続けているのではないか。人間の真実。つまり人間とはなんなのか、ということを。


手塚治虫さんの漫画の根底にあるものも、人間の真実、人間とはなんなのかということだと思う。ただ浦沢さんと違うところは、手塚治虫の根源には医学が関わっていることだ。


■ 大学の同期で獣医を志しているものがいたが、彼らが学んでいたことの一つに生き物の器官、骨、神経などを全て覚えるということがあった。彼らは専門分野が動物だったので犬や猫についてそれらのことを学んでいたが、これが医学になれば当然人間のそういったこと全てを覚える必要がでてくる。


■ つきつめて、人間は機能で構成されている。人間の身体を形成する全てをこと細かく見つめていけば全てを機能で分類できる。医学博士にもなっている手塚治虫ならば人体解剖も少なからずやったはずで、その際に人間はそういった機能から形成されていることを実感したはずだ。


■ しかし、人間の身体を極限まで突き詰めると、機能だけでは割り切れない部分が出てくる。それは感情といったもの。人間の身体を突き詰めたからこそ、手塚治虫は人間のその機能では割り切れない部分を意識したのではないか。そこが、手塚治虫が漫画を書く根源になってはいないか。


■ 人間の真実。人間とはなんなのか、を漫画で描く二人だけれども、この医学と音楽の違いはとても大きいと思う。


■ お二方の作品はどれも大好きなのだけど、最近の浦沢作品でどうも気になるのが、あらゆる登場人物に、何か行動をする際の動機があること。もちろんそこが人物描写の細かさとして評価されているところだとは知っているので、かなり偏見な好みなのだけど。人間ってあんなにみんな動機があって動くものだろうかと思う。いや、なにか行動をするときはその人なりの動機はあるはずだ。でもそれは他人の目から見て真っ当であるものばかりではないはず。その人にとって動くに足る動機ならば、僕にとって「ありえなく」てもなんだっていいのだ。その点で、浦沢さんの描く人物の行動の起因となる動機はとても動機にふさわしいものばかりで、穿った見方をしてしまうと、そんなに真っ当な動機ばかり存在するのかなぁと思ってしまうのだ。きっと浦沢さんは性善説で人間を捉えているのだと思う。で、おそらく手塚治虫性善説で人間を捉えてはいない。僕が感じる二人の差はここで、この違いがまさに医学と音楽の違いだと考えている。まぁ憶測ですが。


■ 昨日のこと。夕食後、お腹が尋常じゃなく痛くなった。食べ過ぎか。もしくは夕食で食べた3日目のカレーがどうもギリギリな匂いがしていたので、それに当たって腹をくだしたか。もしくは食べ過ぎのうえ、さらに当たってくだしたか。