東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『尚武のこころ』

■ 今日の昼に会社の同期の人がレバノン料理をお裾分けしてくれた。なんでも昨日、レバノン料理を食べに行き、それをちょっと包んでもらったとのこと。いわゆるナンみたいなパン(ピタパンとでもいうのか)に鶏肉とかトマトとかを炒めたものを包んで食べるといったものだった。当然、レバノン料理など食べるのは初めてだけど、それはそれで食べたことがないような感じの味。考えてみれば食材なんて全世界を見てもそれほど劇的に違うわけではなく、実際、食べたレバノン料理も食材は僕がいつも食べているものと変わらないわけで、それでもこうやって国ごとに、地域ごとに料理が変わってくるというのは、これは味付けの違いなのだろうか。土地が変われば料理が変わる。当然だけど、これもまた面白い。


■ 『尚武のこころ 三島由紀夫対談集』(日本教文社)読了。偶然性を拒み、徹底的に必然性を求める三島由紀夫の姿勢が対談にも如実に現れているように思える。

『僕は芸術と行動を絶対にいっしょには考えられないのですよ。芸術と行動がどこが違うといいますとね、芸術は美が主であり、行動は、つまり行動が主なんです。
(中略)
ですから美というものは、行動の場合、たまたまの結果なんですよ。結果の美さえあればいいのです。』

  『ことばというものはこれしかないというところに属すると思うから、テレビや座談会で喋っていることばはことばじゃない。高橋さん(注釈:その時の対談相手の作家高橋和巳氏)やぼくが書斎のなかで一晩考えたことばが本当のことばであって、これが表現行為だと信じているよ。
(中略)
つまりこれしかないという表現を体でもって選ぼうとすればことばだね。最終的に、ことばか身を投げるしかない。』

三島由紀夫の最期を知っている立場で、これら三島由紀夫本人が口にした言葉を読んでいると、なんとも圧倒されてしまう。そこには自分が語る言葉への覚悟があるように思う。
 

■ ところで、話はちょっと変わるけど、この対談集を読んでいて、たとえばこういう言葉の使い方に「おやっ」と思う。唐突に一説だけど引用。

『〜僕は子供が可哀想になっちゃった。(笑い)』

この本の初版が昭和45年9月25日とあるわけで、時は1970年ですか。この当時からすでにこの『(笑い)』という表現が文章に使われていたわけです。『(笑)』ではないこともちょっと興味深い。対談集だから、語られる言葉はもちろん重要なわけだけど、それに加えて、そういった言葉が紡がれていく対談の場の雰囲気をどういう風に伝えるか、はたまた伝えないかということも出版する上では重要なわけで、この『(笑い)』というのは少なからずその場の雰囲気を伝えるための手段になっているわけでしょう。


■ なんとはなしに、こういった(笑)や(怒)といった表現はわりと最近になって使われてきたものだと思っていたのだけど、すでに昭和45年には使われていたわけでして、本の主旨とはまったく別ではあるのだけど、そういったこともこの本を読んで初めて気がついた次第でして。


■ 漢字は当然、意味があるわけだけど、かなり見た目のイメージから受ける印象も強いから、見ているだけでひとつの表現としても、とても有効なものとして存在していると思う。「痛」なんて見ているだけでなんだか痛い気分になるし、「凶」なんて本当に見てるだけで辛くなる。「辛」もつらい。「辛くて辛い」はだからかなりしんどい。「幸」と「辛」はちょっとしか違わないのに雲泥の差だ。「鬱」なんて、もうこれでもかってくらい込み入ってるし、なんだかかくかくしている字面の中で、右下にあるさんずいを逆にしたようなあれの不安定な感じが、本当に気分を不安にさせてくれる。冷静に見てみると「鬱」ってほんとつらい文字だな。


■ 文章という表現方法が確立していく上で文字の文化っていうものはとても重要だと思う。メールや2ちゃんねる掲示板への書き込み、さらにチャットといった文語体のコミュニケーションが日本でこれだけ発展しているのも、漢字だけに留まらず、平仮名や仮名などの文字がその意味以上に多様な表現方法を可能にしているからだと思うし。ただ、まぁ、そういう風に感じるのも生まれながらに日本語に慣れ親しんだという土台があるからなのかもしれない。


■ 多分、突き詰めて考えると僕はまず人間で、その次に日本人だ。日本人であるという僕は、根本的な僕ではなく、後天的なものなのだと思う。それでも僕は自分が日本人であるということ、少なくとも日本語という言葉に自分が支配されているという意識がすごく強い。世界共通の面白さというものも世の中にはあるのかもしれないけれど、きっと日本語を理解している人にしか判らない日本的な面白さというものもあると思う。それは翻訳という作業では完璧には伝わることのできないものなのだと思う。翻訳は意味を伝達するだけだから。しかし感覚は意味を超えたところに存在している。だからだから日本的な面白さを理解する感覚はある程度の経験を伴わないと備わらないのだと思う。


■ じゃあ、日本的な面白さというものが僕の絶対的な感覚なのかといわれたらそうではないのかもしれない。僕が日本ではなく、アメリカで生まれて英語に触れて生きてきたとしたら日本語で伝わる面白さのニュアンスを理解できなかったかもしれない。人間はどうしたって生まれる場所を選べないわけで、言葉はいつだって後天的なものとして与えられる。その言葉によって形成された人格がその人の絶対的、本質的な感覚の全てなのかといわれたらそれはやはり違うかもしんない。じゃあ、言葉のずっと前にある僕の本質的な感覚っていうものはなんなのか(そういったものが本当にあるのか)といわれたら、それはよくわからない。三島由紀夫石原慎太郎の対談で語られていた人間の、日本人の根源にあって最終的に守らなければならないものについての論争はとても興味深かった。でもまだ僕にはそれがなんなのかは判らない。それに、とにかく今は日本語による表現に頼って生きているわけで、そういった状態を束縛されてるって思うほど窮屈してない。だから、こうやって日本語で日々モノを書いたりしているのだろうし。本質か。そう考えると難しいものだなぁ。


■ ところで今週末23日に品川インターシティ内のフリーマーケットで催される『第3回フリマでミニミニ古本市』の準備はちゃくちゃくと進んでいるようだ。そんなに本を購入している場合じゃないんだけど、なんだか楽しそう。素敵な本に出会えるかもしれない。


■ あと、今週末から渋谷シネ・ラ・セットで限定公開する「日曜日は終わらない」はやっぱり観たいな。しかしチャンスが少なすぎる。モーニングショーで1週間だけって。きびしいなぁ。