東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『日曜日は終わらない』

■ 快晴の日曜日。予定通り品川インターシティフリーマーケットに行った。当初の目的は古本市だったのだけど、先に他の店を物色していたら何点か欲しい洋服がみつかり、ついつい購入してしまった。そのため、古本市のスペースに行ったときには荷物は多いは、手持ち金が少ないわといった状況に陥る。本のラインナップはとても充実していた。

小林秀雄『作家の顔』(新潮文庫
横尾忠則『私と直観と宇宙人』(文春文庫)
大江健三郎ヒロシマノート』(岩波文庫)他2冊購入。

さらに別の古本販売の店で

横尾忠則『波乱』(文春文庫)
山本直樹『テレビを消しなさい』(光文社)を購入。

それだけ買っても千円ちょっと。安い。他にも石原慎太郎三島由紀夫について書いた本(尚武の続編みたいな感じだった)や、マルクス兄弟の映画のビデオ等興味をそそられるものが多数あったけれど、資金不足。もっと計算してお金を使わなくてはと反省した。しかし素敵な買い物をさせてもらった。


■ 週末のこと。21日(金)。新宿である方と会う。役者のお願い。正直、この方に断られたらかなり辛い。もちろんそんなこちらの事情をさらけ出すのは格好悪いのだけど、わりとさらけ出してしまった。もともと頼りがいのある方なので、ついついすがる思いでお願いしてしまった。格好悪い。とにかく検討していただくことになる。連絡は月曜以降。待つ間、また精神的によろしくないことになる。


■ 22日(土)。さいたま芸術劇場で行われたあるイベントを見に行く。と、いうのも1月にやる芝居のバンドのサポートメンバーに入ってくれる方がそのイベントに参加していたから。というわけで、バンドのかげわたりの家常さんと一緒に行った。さいたま芸術劇場ってそうとう立派な劇場なのだけど、その企画を立てた方々は一体どういう流れでこの劇場でイベントをやろうと考えたのだろうか。チラっと聞いたら借りるのに相当な金額がかかっているとか。そうだろうな。


■ 観賞後、赤羽まで出てから家常さんとちょっと食事。家常さんと話していると本当に面白い。そして、いろいろと気付かされることが多い。僕はもっと自分がやりたいことを明確にしておくべきなのだと思った。そしてそういうことをはっきりと言葉にして役者や一緒にやるメンバーと話し合っていくようにする。それがいろんな人を自分の芝居に巻き込んでいく側の責任なのだろうし、そうやって対話をしていくことで僕自身が何をやりたいのかがさらにわかってくるのだと思う。


■ で、再び日曜のこと。早起きして渋谷へ。シネ・ラ・セットでモーニングショー公開している「日曜日は終わらない」を観に行った。本当に面白かった。劇作家岩松了さんが脚本をしているということで、おぼろげながらなんとなく僕が思う岩松さんの芝居のイメージで、作品を想像していたら、いい意味で全然違っていた。台詞が最小限に抑えられていた。岩松さんの戯曲はとにかく舞台上で役者が台詞をしゃべる印象があったのだけど、この作品はあくまでも淡々と日々の生活を映し出している感じだった


■ まず度肝を抜かれるほど、印象的なシーンが出てくる。経営難から仕事をクビになった水橋研二扮する主人公一也が職場から自転車で帰るシーンは圧倒的だった。夕焼けが東京の臨海地域と思われる場所にある工場を照らす中、レインボーブリッジのようなつり橋式の橋の端の地上へと続く下り坂を自転車で駆け下りる一也の姿を横移動の映像で映しだす。仕事を首になったという状況は問題のある状況だとは思うけど、主人公一也はまるで何かから解放されたような感じで、下り坂を自転車で滑走している。しかしその映像は遮断されて唐突にタイトルが映し出される。


■ ここから、この映画に解放はない。と、いうか仕事から解放されたということは、日常からの解放では決してないわけで、一也にもたらされたのは結局変わらずに平凡な生活だった。ところがその後、祖母が事故で死に、その事故を起こした男が母親と再婚することになる。そして一也はその義父を殺してしまう。物語は急展開を迎えるのかと思いきや、そんなことはなく、その事件後も相変わらず平凡な日々が続くことになる。その日常をカメラは淡々ととらえていく。


■ 興味深いのは、この映画にはとても多くの乗り物が出てくること。重要な役割を果たす一也が乗る自転車を筆頭に、軽トラック。水上バス。電車。ケーブルカー。飛行機。その上、ロケットまで出てくる(母親と離婚している実父が作っているという設定)。そして舞台も工場、自宅から始まり、ピンサロ、海(そして海の底)、山、果ては宇宙(一也の空想?のようなイメージ映像だけど)までとどこまでも広がる。こういった移動手段としての乗り物の出現が物語の世界を広げているし、そうやって乗り物や場所が沢山出現することで、『社会』と『世界』はつながっている可能性を示しているようにも思われる。


■ しかしここで重要なことは、主人公一也が常に自転車と共にあることだ。山へ行くときも、海へ行くときも常に自転車がそこにはある。果ては家の中にまで自転車は持ち込まれる。どこへ行くときも自転車がついてまわる。自転車は自由(世界)へと主人公を連れ出す手段としてあるが、それと同時に最終的には常に日常(社会)への回帰を促すものとして存在しているように思われる。一也が自転車で遠いどこかへ行こうとも、最後はその自転車によって家に、自分の部屋に、つまりいつもの日常に戻ることになる。


■ 実際、物語の終盤、一也にとって平凡な日常生活の唯一の救いであったピンサロ嬢佐知子と海へ山へ出かけるという幸福なひと時を過ごすシーンがある。このまま一也は平凡な生活から解放されるのかと思いきや、まるでそれが夢だったかのように佐知子は突如姿を消す。そして一也は一人自転車で帰宅する(社会へ戻る)ことを余儀なくされる。さらに一也は海に飛び込んだりするが、次のシーンでは何事もなかったかのように自転車をこいでいる。簡単に日常に戻される。実父が作るロケットが着々と完成していく映像が背景に映し出されながら、それとは無関係に猛然と自転車で滑走する一也の姿が映し出されるシーンがあるのだが、それは平凡な日常から解放されることが不可能な一也の必死のもがきのように思えて、言葉を失う。


■ 世界は社会から切り離されることはない。自転車さえあれば一也はどこまでもいけるが、いずれは帰らなくてはならない。自転車が戻れる場所は平凡な日常しかない。人間がそういった生活から解放されることはないことを徹底的に描く。物語の最後、一也は自転車で家に帰ってくる。そこで待っていたのは実父だった。実父はさして伸びてもいない丸刈りの髪をバリカンで刈ってくれと一也に頼む。一也はバリカンを持ち、実父の髪にバリカンを当てる。そこでたった一言会話が交わされる。そのシーンは、社会の中にこそ世界があるのだということを示したシーンだったと思う。世界と社会は切り離されてはいない。平凡な日常はどうしたって繰り返される。その平凡で退屈な日常の中に、「肯定」できる『世界』とよべる何かの存在を見出せたら、人はその先へいけるのではないか。物語はその会話が終わった直後、社会の中の幸福な一瞬を描きながら突如終わる。そこから先は観客に委ねられた。僕は幸福にも、映画館を出た後に、いろんなことを想像する自由を得ることができた。この映画は本当に見る価値があった。素敵な作品だった。


■ いろいろと充実した週末だった。