東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『存在のない子供たち』

22日(火)。この日は祝日だということを前日まで気づかなかった。とはいえ、仕事だったので、あまり変わらぬ日常。朝は雨が降っていたものの、日中は少し雲間から晴れ間も見えた。都内から郊外へ電車で移動。久しぶりに降りる世田谷のとある駅。気温がやけに低かった。で、この町に降りると、よく行くラーメン屋さんがある。コラーゲンというのか、豚骨をこれでもかといわんばかりに煮込んだスープはコクがあり美味しく、御飯にかけても旨い。そのうえ、御飯がおかわり自由。調子に乗り、御飯をおかわりしてがつがつと食べる。

それから帰宅。引き続き、体調が悪く、口元の発疹は治らないので、果物を食べるといいかなぁと思い、嫁に話すと、夜ご飯は果物も食べれるバイキングに決まってしまった。昼にこれでもかぐらいにラーメンを食べてしまったので、さすがに食欲はほどほど。それでもお肉やフルーツを食べる。で、自業自得だけど、食べ過ぎて体調が悪くなる。なんというか、良かれと思って食べて、体調を崩すというのはなんとも物悲しい。ふらふらと家族3人で帰路。娘から「髪型がおかしい」と言われる。その根拠はなんなのかと聞いたが「おかしいからおかしい」と言われる始末。娘を寝かせてから、録りためていた『いだてん』を観る。『いだてん』は本当に面白い。

23日(水)。朝起きたら快晴。掃除機をかけてから、嫁さんから言われた皮膚科の病院へ行ってみる。外は晴れていて気持ちいい。半袖でも問題ないくらいの心地良さ。病院へ行くと、少し様子を見られてから、なにやらいろいろ言われ、最終的には「軟膏を塗ってください」ということを言われて終わる。処方箋をもらい薬局へ。平日の朝はなんだかのんびりとした雰囲気で良い具合。そのあと、仕事など諸々でかける。用件の合間に、小一時間余裕があったので、喫茶店に入るくらいならと、食事休憩もかねて新宿御苑へ。晴れて気持ちいい天気の日は、御苑は気持ち良い。のんびりできる。で、余裕をこいてたら、日が暮れるとどんどんと冷え込んできて肌寒くなってきた。

夜。仕事終わりに渋谷のアップリンクで映画『存在のない子供たち』を観る。

映画を観ていて、ずっと演技をする、ということを考えた。この作品はその土地の社会を切り取っているとはいえ、あくまでもシナリオのある物語だ。主人公の男の子は、年齢設定も12歳くらい、という設定。その歳の子が、シナリオを基に撮影される映画に向き合う時、演じるということをどこまで考えているのだろう。「悲しむ」「泣く」「怒る」など様々な感情が溢れる作品だが、少年の演技は、感情を表現するというような意図を感じさせない。シナリオに沿って、撮影条件を満たす準備ができた後、カメラのRECボタンが押されることで、そのカメラフレームの中で、彼らは演技をする必要があるだけど、そのフレームをまったく気にさせない彼の佇まいは、彼が実際に映画の中で起きている出来事と近い現実の中で生活をしている一般の子だから、ということでは説明がつかない。悲しみや怒りの表現も多様にあり、涙を流す場面さえも、彼は場面ごとにその演技が変わる。ためこんだ怒りや悲しみを押し殺すようにする場面もあれば、包丁を持って怒りを露わに駆け出すシーンもある。彼のその、演技を遥かに超えて、その場に、その画面上に存在する姿は、果たして、どこで培われたのだろうか。その姿にただただ驚きつつ、ずっと『演じること』を考える。例えば、乳飲み子の子供が甘えもあるのだろうが、母親の乳房を触りたくて洋服の中に手を伸ばすシーンがあれば、仕事で母親がいないとき、少年の胸にも手を伸ばすシーンがあるが、あれは演技ではないだろうし、お腹を空かせているはずなのに母親のものではない乳の入った哺乳瓶を嫌がり泣きじゃくる姿もまた、演技として狙って撮影できるものではないと思う。どのようにしてあの場面を切り取ったのだろうか。ただただ驚きながら、映画の中で行われる出来事と、映画を作り上げる俳優たちの演技やスタッフの方々の仕事に、二重で驚愕しつつ、目が離せなくなる。

少年の演技についてつくづく考える2時間の終わりに、物語の中でも重要なカギとなる存在証明として、証明写真を撮る場面がエンディングに用意されている。写真を撮るために「笑って」という声に応えるように、笑顔になる少年は、この時、意図的に演技の笑顔をするが、その笑顔が、またとてつもなく素晴らしい笑顔。僕なんかでは想像もつかないほど過酷な現実の中で、役の中でも、実際の生活でも生きているはずなのに、一瞬で観ているこちら側を引き込む。あの笑顔は、演技であるはずなのに、演技を遥かに凌駕する。それでまた演技とはなんなのかと自問する。

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