東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』

朝起きたときは曇り空でまだ雨が降るような感じではなかったけれども、15時過ぎくらいからポツポツと雨が降り出し、夜になると傘が無いとダメなくらいになった。天気予報で降水量というものが表示されるが、あれはどう飲み込めばいいのだろう。例えば、今日に関しては1mmと表示があり、それを見たこちらとしては、「1mmか、では靴は長靴で、傘もしっかり持っていかないとなぁ」とでも対応するのか。では2mmなら、はたまた5mmならどうしろというのか。それはさておき、雨が降り、気温も低いため、肌寒い夜となった。

そういえば、都なのか国なのか、詳しく見なかったが、給付金が入金されたとの通知がきた。家族3人、30万円。ありがたやとは思いつつ、一方でマスク施策にアホみたいな額をかけたり、給付金事業委託問題など、個人に10万程度などかわいいとさえ思えるようなやりたい放題をされているのを目の当たりにすると、なぜ、ここまでやりたい放題なのに、支持率が下がらんのかと茫然とする。

改めて、映画『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』について考えてみる。グザビィエ・ドランの作品をすべて観ているわけではないので、多くは語れないですが、結構な近さで人物のアップの表情を捉える画がある。ものによって顔にフォーカスがきているのに、肩口はぼけるほどの深度のレンズを使う時もある。俯瞰だったり、あおったり、少年と母親、母親と教師、教師と少年、焦点となるジョンと恋する男性、ジョンとマネージャーなどなど、組み合わせを変えながらも、一対一のやりとりで使用される。その中で、いくつか印象的なアップの画があった。

物語の冒頭、手紙を送る少年と母親の二人の会話は、どこかの食堂のテーブルで、正面からの切り返しでカットがつながっていく。カメラ目線であり、小刻みな台詞のやりとりのテンポに合わせて母と少年を切り返していた。記憶を頼りなので性格ではないけれど、正面からカメラ目線で切り取られたアップは、この場面と、あと、物語の後半、ジョンがおそらくアルバイトをしている飲食店の厨房で手紙を書いてる場面、不意に訪れた老人がジョンに向かって語りかけるときのワンカットだけが、カメラ目線だったように思う(若干、自信なし)。それでいうと、多くのアップのカットがあるこの映画の中で、正面の切り返しは冒頭のシーンのみに使用されていた。

いずれにしても、かなり接写でカメラも近い位置で撮影していると思われるアップの画だけれど、映画の中盤、ジョンが酒に酔ってクラブで踊っている場面、恋をする若い男性俳優と目が合い、二人の距離が近づく場面、二人の顔が近づいていく描写を、その2ショットで画におさめる。これまで1ショットを接写したアップでおさめる画は多くあったけれど、ここで2人のツーショットを、とてつもない近い距離で画におさめることで、具体的に二人の距離感が近づいていく以上に2人の気持ちが近づいていったことを示しているように感じた。その後に、車という二人の距離が接近している場面では、2人は同じ画には入らず、あくまで1ショットずつで会話が行われ、ジョン自身が2人に生じてしまった出来事を後悔する距離感が保たれる。その後、2人の関係が露呈し、人気俳優としてのブランドを喪失したジョンが、もう一度、その若い俳優に会いにいこうと家を訪ねる場面。扉を開けると、若い俳優が姿を現すが、奥の部屋には家族がおり、ジョンが部屋に入ることをやんわりと拒絶する。このアップの画の時、二人の台詞のやりとりは奥の家族に聞かれないように小声で発せられるが、それが、なんとも切ない二人の距離感を示す。肩越しをなめるような画作りはするものの、やはり二人が2ショットにおさまることはなく、劇的に近いカメラが二人の表情をそれぞれ個別にアップにするが、小声のやりとりの中で、彼らの関係が終わっていくことを淡々と切り取る。

もう1シーン、印象に残った場面として、先にも書いたけど、ジョンがアルバイトと思われる働き先の厨房で手紙を書く場面、不意に訪れた老人とのやりとりで、突如現れた老人を、これまた大写しで切り取る画があるが、ほぼ真正面からの画でありながら、カメラ目線は記憶によると1回で、それ以外はカメラの奥にいる(という設定で)ジョンを見るような形で、老人は語る。世の中のシンプルさを語るその言葉は、実は意外と、この映画のもっとも根幹にあるものを言い当てるものだったように思う。

この作品自体がどのように受容されるのか僕自身はよくわからない。ある意味で、物語に落ちがつくならば、もしかするともっと多くの観客には受け入れてもらえたのかもしれないだろうが、物語の中心にある、手紙をやりとりする俳優と少年のコミュニケーションは一度も対面したわけではないから一切なく、手紙を通じてお互いを支えあうみたいな典型的な物語は拒否するかのように描かれない。むしろ、本当にジョンは少年に手紙を書いていたのか信じがたく、最後までそこも明確にしない。中盤、ジョンが激しい頭痛に襲われることもまたその理由は明確にはされず、ナレーションでうっすら「病気だったかもしれない」という言葉が入るが、それもさらっと流されるように語られる。周縁であるはずの親子の関係、教師との関係、ジョンと若い俳優との関係などの方が、きちんと描かれるので、なおさらジョンと少年の関係は薄くなる。それでも一方的に少年はジョンの存在に自分の理想を夢見るし、大人になってからも手紙を受け取ったことにより培われた強い気持ちは変わることはない。アデルの楽曲やスタンドバイミーのカヴァーなど耳障りの良い楽曲と共につないでいく画作りは、感覚としてはミュージックビデオのようで、もちろんそれは一面ではカッコいいのだろうけれど、映画としての画の強度がどれほどあるのだろうかと考えてしまう。

それとは別にキャシー・ベイツは、日本でいえば樹木希林さんのような俳優だなぁと実感する作品でもある、と思う。