東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『象は静かに座っている』

23日(土)。朝、どしゃぶり。傘をさして、少しイレギュラーな仕事で、行ったことがない町へ。地下鉄から地上に出て、目的の場所に向かって歩く。途中で気になるお寺を発見し、その仕事が終わった後に、そのお寺へ行ってみる。敷地内は広く、フラフラとしていると、なにやら石が積み上げられたような石碑的なものが。よく見ると、石臼を積み上げた碑で、なんでもこのあたりが蕎麦のお店が多く、その名残か、石臼供養として建てられたらしい。そういうものがあるのだなぁと驚く。

その後、少し時間があったので、近くのマクドナルドに入る。マクドナルドは、あれですな、前々から思ってますが、長居をさせないために、テーブルと座席の感じが、程よく座りづらい。そして、空調も絶妙に肌寒い。1時間ほどいると限界が近づく。

それから、どうしても観たかったフ―・ボー監督『象は静かに座っている』を観に行く。深度の浅いカメラは、まるで主人公となる4人の登場人物のみを追いかけるように、彼らだけを追い、他の登場人物や周りの風景はあくまでも周縁のものと割り切るようにフォーカスがぼやけたり、カメラのアングルから外す。長回しの中で、刻々と変わる役者の位置関係を計算されたカメラの移動で追いかけていくので、どのシーンも息をのむ緊張感がある。少女が、母親と口論したのち、痴情のもつれからトラブルになった女が押しかけて、部屋に逃げ隠れて、そこから外へ回り、逃げようとしたものの、思い立って、手に取った金属バット(このバットの置き場所もまた、事前に触れられていて、アスファルトに刻まれるように響くバットの金属音とそれを持つ少女の危うさを描いているのが凄いのだけど)で、女と、そして男を殴打し、母親と対峙したのち、外へと歩き出す場面の劇的さは、この映画でしか描けないような気がする。中国の社会状況をきちんと学んでない僕には、彼らの背景にある息苦しさはおぼろげにしかわからないけれど、主人公たちのもの言わぬ佇まいの中に、そして凍てつくような寒さの中に、生きづらさを感じずにはいられない。

カメラは常に、徹底して、主人公たち4人に近い距離にある。その距離感が、彼らの息遣いを感じさせ、この映画の緊張感につながる。途中の、飼い犬をかみ殺された老人が、飼い主に文句を言いに行く場面。その口論の終わりにカメラは、二人から離れていく、が、そのシーン以外は、記憶の中では、常にカメラは彼らの傍にある。そして映画の最後、バスで最後の目的地へ向かう彼らを追うとき、長距離バスの休憩中の2回、カメラは彼らから距離を置いた場所におかれる。一つ目は、移動の際の休憩の場面で、老人と孫、青年、そして、少女の4人が佇む姿を捉える。バスの光が彼らを照らし、彼らは寒空の中、ただじっとバスの出発を待つ。この時は、人物全体が入るようなサイズで切り取られた画角。そして、最後のカット。おそらく明け方間際、どこかの暗く広い場所に到着したバスから、乗客たちが降りてきて、その暗い世界の中で、彼らは遊びに興じる。この最後のカット、234分の最後に、カメラはとてつもなく広く大きな画になり世界を映す。そこにどこからともなく象の鳴き声が聞こえてきて、映画は閉じられるが、僕にはなんだか、この2つの引きの画を撮るために、それまでの200分以上の時間、カメラは彼らに肉薄しているようにも感じた。

なんにせよ、とてつもなく刺激を受けた映画だった。