東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『表現者であること』

梅雨に入ったようで、天気が悪い日もあれば、すかっと晴れて気持ちのいい日もあった一週間。今日は、半袖で外にでたけど日が暮れると肌寒い。


月曜日。3回目となる授業。まずは最初に脱線して小平の選挙のことについて自分なりに思うことを話した。そんなことが演技の勉強に必要なのかと言われれば違うかもしれないけれど、『表現する』ことを考えたい人には絶対に必要だと思った。それから、ごくごく短いシーンを3班にわかれてカメラで撮影をしてみることに。設定は男女2名ずつ、4人の登場人物。場所はトイレ近くの通路。4人が会話をする、短い場面。そして条件を一つ。それは1カットで撮るということ。教室を出たところにあるトイレ付近で、班ごとにわかれて、どのような場所にカメラを置くかを探る。そして撮影。


それで、自分でも気付いたことがある。シーンによって当然カット割りが出てくるが、割るとしても、そのシーンの軸になるマスターショットというものはあるはずで、つまりそのマスターショットをどう画作りするかが、重要でそれを決めた先にカット割りは付随してくるのではないかということだ。以前は、マスターショットは、とりあえずの引きの1カットと思っていたが、そんなことはない。そのシーンで何を表現するかを決定させるためのマスターショットは、絶対のモノなのだ。そしてそのマスターショットが決めることで、その後のカット割りは決まってくる。個人的にも1シーン1カットでいけるほどの、ロイ・アンダーソンのような画作りをしたいと思っているし、それにはマスターショットは重要なのだと改めて気付いた。自分自身でも発見がある。


で、月曜の夜。とある映画の試写を観る。佇まいのいい俳優さんの立ち方は、ただ立っているだけなのに、本当に引き込まれる。


で、木曜は代休。午前中は娘子と公園で遊び、夕方に家常さんの事務所に家族で行く。主に嫁氏ががんばってくれている計画についての会合というか。娘子は、こういう真面目な会合が嫌いで、まぁ、自分が相手にされてないからだろうけれど、やけに騒いで早く帰りたがってしまった。とりあえず会合を終えて早々に帰路へ。で、その帰りに家常さんから夜に会おうといわれ、娘子を寝かしてから再び会った。


最初は、その計画について少し話をしてから、それとは別の最近のことについて話す。家常さんが観た舞台のことと、そこで考えた表現者ということについての話。それが実は、自分が最近考えていたことのヒントになった。というのも、『映像演技』というものを教えるとき、何を教えるべきかを悩んだから。彼らは表現をしたいという欲求でその場所に集まっているが、いわゆる所作、発声、立ち方、もっといえば日舞や殺陣といった技術的なことや身体の基礎的なところは僕なんかよりも専門家が教える方がずっとためになる。では、僕は何を教えるべきなのだろうと悩んでいた。それを解決するヒントを話していて気付いたような気がする。


結論めいたことがあるわけではないけれど、『気付かせる』ことなんだろう。大仰なことではなく、自分の何かを押し付けるではなく、彼らが自分たちにそれぞれに必要な表現者としての自覚を気付かせる。そのために、自分の経験を話す。それでいいのだと思った。とにかく誠実に話そうと思う。


で、家常さんと話をしていると共感するという部分が多いのだけど、面白いことが、ある。家常さんは自動車免許の講習で、動体視力がレーサー並みにすぐれていると言われたのだという。一方の僕は、人よりも動体視力が劣っていると言われた。おそらく僕に見える視界と家常さんに見えている視界はずいぶん違うのだろう。もしかしたら真逆かもしれない。そんなはずなのに、家常さんと話していると共感すること、同じようなことを考えていることが本当に多い。夢中になって話をした。気がついたら深夜2時くらいになっていた。


外に出ると、雨が止んでいて、やけに静かな町を歩いて帰った。自分の足音がやけに大きく聞こえた。すこしばかり気持ちが高揚して帰宅した。