東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『活劇とポートレイト』

蓮實重彦黒沢清青山真治の映画対談『映画長話』を読むと、しばしば『活劇』という言葉が出てくる。それはいわゆるアクションではなく、自分の理解できる範囲で想像するに、それは映画的な画のことなのだと思う。『映画』を観ていると、不意に、「あ、この画は」という場面にでくわすことがある。お三方が言っている『活劇』というのも、きっとこのようなものではないのだろうか。(とはいえ、僕の想像しているものとは違うかもしれないけれど)
しかし、『活劇』は、特定の「コレ」というものがあるわけではない。対談の中の、蓮實さんの言葉を借りれば、それは「わかる人にしかわからない」。

「わかる人にはわかる」というのは、いつかは理解者に出会えるかもしれないというロマンチックな夢想ではありません。ごく内輪の「わかった、わかった」という仲間同士のうなずきあいでもありません。また、作品の正しい理解に基づいたものでもありません。わかろうとしていたわけでもないのに、不意に何かがわかってしまうという瞬間は、生きている現在をゆるがせて優れて現実的な体験そのものなのです。それが映画にはある。

レオス・カラックスの映画を2作品観た。
『ボーイ・ミーツ・ガール』『汚れた血
この2作品がすごく良かったのは、物語や役者といったものではなく、不意に出現する映画としか呼び得ない画がでてくるからなのではないかと思う。つまり『活劇』としての画。(たぶん、きっと)
例えば『汚れた血』の、向かいのホテルに裸足のアンナを、主人公アレックスが抱っこして連れて行く場面の画など。


日曜日。目が覚めたら11時過ぎていた。久しぶりに朝寝坊。掃除機をかけてから朝食のような昼食をとり、恵比寿へ。
東京都写真美術館で行われている鬼海弘雄さんの『東京ポートレイト』を観に行く。最終日、ギリギリセーフ。
鬼海さんの写真の被写体になる人たちは、「撮らせてくれ」と頼まれたからカメラの前に立ったような人たちで、彼らの目線は、カメラのずっと向こうの受け手にまでは意識されてない。モデルの人たちであれば、彼らの目線は明らかにカメラの向こうの、受け手に向かっている。その立ち方も、表情も、メイクも。しかし、鬼海さんのカメラの前に立つ彼らの目線は、カメラのレンズに向いているだけで、あるとしてもカメラマンである鬼海さんにしか意識はないように思う。
「ただ、撮られている」
そこが、鬼海さんの写真の魅力になっている。被写体となった人たちの、その立ち姿から、受け手のこちら側が被写体の彼らの生き様を想像する。各作品に添えられる秀逸なタイトルと、被写体の生き姿を的確に捉えた仕草を切り取った写真。

毎回そうなのだけど、美術館にいくと本当にぐったりとする。観るのにすごく疲れる。結局、写真展をまわったらぐったりしてしまい、すぐに帰宅。帰ってグーグー寝る。


夜になって目覚めたら、乾燥していたのか、口がすごく乾いていた。
ジャ・ジャンクー『世界』をDVDで。


いよいよ肌寒くなってきた。
しばらく見ぬうちの、娘子の成長がはんぱねえ。新米で握ったおにぎりを頬張っている。