東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『JOKER』

朝起きたら、風と雨が強くびっくりした。娘は雨の中、学校へでかけた。仕事に出かけるのに憂鬱だなぁと思ったら、9時過ぎには雨が止み、あっという間に快晴に。この日はJRで移動だったので、気持ちよく池袋まで歩く。というかあっという間に汗ばむほどに。

埼玉の方で少し仕事。荒川を越えるあたりの、ちょうど東京から埼玉に入るあたりは、見晴らしが良い。事前に調べてたのだけど、降りる駅を間違えそうになった。ギリギリ降りる前に確認とれてセーフ。

仕事を終えて、どうしても映画『ジョーカー』を観たくなり、レイトショーを調べると完売。諦めきれずに、終電を過ぎる時間を調べると24時近くからの回がある。意を決して新宿へ。ただでさえ賑やかな街なのに、金曜の夜はさらにうるさい。

映画『JOKER』
『her/世界で一つの彼女』を観た時、ホアキン・フェニックスの左肩が気になっていた。生まれ持ったものなのか、何か怪我などの後天的なものなのか、右肩に比べると肩が内側に入ってるように見えて、後ろ姿は非対称に見えるし、その分、なで肩にも見える。もちろん、そういった身体の特徴は、その作品では特に触れることはないし、まったく関係なくステキな作品だった。

この作品のためになのかわからないけれど、かなりの痩せ方をしているホアキン・フェニックスは、その身体をこれでもかと露わにする。冒頭の若者に暴行を受けたのち、靴紐を結び直す上半身裸の背中のショットはその後ろ姿とノイズのような紐を締め上げる音だけで、この後の物語の先行きに昏く不安なものを予感させる。

腕が長く、顔が大きく見えるうえに、肋骨が浮かび上がるほどに息を吸う姿は、ホアキン自身が作り上げた渾身の不気味さのように思う。

あらゆる場面で、階段は常に下りの描写であり、主人公はまさに堕ちていく。仕事場を辞めて去る時の階段を降りた先に、光の中に出て行く皮肉。母親と自分の事実に気づくのも病院内を逃げながら下った階段で読んだ診断書だし、重い足取りで果てしなく上る階段を上がり、家路へ帰っていたが、ジョーカーへと変貌を遂げた場面は解放感に溢れながら階段を降りて行く。

ふと、思う。例えば、地下鉄での殺人のあと、隠れるように逃げ込んだ場所で、カメラが足元へ移動し始めたと同時に踊り出した場面。あそこは台本ではどのように書かれているのかと想像する。

『息を切らせつつ、足は自然にリズムを取り、ゆっくりと踊り始める』

そのような記載がありえたのか。脚本家はホアキン・フェニックスのあの場面の、息をのむ舞いを、執筆当初から想像できていたのだろうか。あの場面、あの踊り出しは本当に息をのむ。

そして音楽。ある意味で、この映画は音楽映画のようにどの場面でも音楽が流れているように感じる。その中で繰り返される、堪えきれずに笑いが溢れてしまうホアキン・フェニックスが発する音は、劇中に流れる音楽とは異なる、ノイズのように存在し響き渡る。その引っ掛かりが、音楽の心地よさを壊し、映画を観る側にどこまでも緊張感を強いる。

貧困の苦しみや、不安、憤りなどの社会的な不安や、一応形式的にバットマンへと繋がる描写を描くサービスを忘れずにいるものの、それらはあくまでも物語の添え物であって、異形の身体を曝け出してそこに居続けるホアキン・フェニックスの姿を見続けることが、この映画の愉楽なのだと思う。愉楽といってと油断させず、息もつかせない。だから、この作品がエンターテイメントとして、エンドマークをつけてくれることで、僕は幸いにも、この作品に一区切りをつけて劇場を後にして現実には戻れる。

彼の踊りを畏怖すべきもの捉えるか、美しいと捉えるかは、彼自身の劇中のセリフを用いるならば「主観で自分で決める」しかない。

まったく眠気もないまま、高揚しつつ歩いて帰宅。どこまでも新宿の夜は騒がしかった。