東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『アワーミュージック』

■ 27日(木)。横浜に住む大学生Tくんと有楽町にあるシャンテ・シネにゴダールの『アワーミュージック』を観に行く。Tくんとは以前、富永昌敬さんの『シャーリーテンプルジャポン2』を一緒に見に行って、その時に、じゃあ次は『アワーミュージック』を一緒に行きましょうと約束をしていたわけでして。


■ カメラに映し出されるものはどうしたって監督の、そしてカメラマンの主観によって捉えられたものだと思うけど、この作品で映し出された映像には、ただそこに人がいて、ただ自分の意見を言っていて、もしくは何かの文章を朗読していて、ただそこにある風景が映し出されているように思え、作り手はあらゆるものを観客に委ねて、主観を極力排除して仲介役に徹しているような立ち位置でいるようにも思えるけれど、編集だけでは作り出せないカットがいくつも存在しており、でもそれを見たときは、そこに作り手の作為とかよりももっとずっと向こうにあるものを感じるようで、それは「うまさ」だけではない何かであって、言葉では言い表せない何かであって、ゴダールの持つ世界を見つめる視線なのだと思ったりするわけで。公式ホームページ(http://www.godard.jp/)の爆裂対談という中で音楽家菊地成孔さんがこの映画の音響について語っているのだけど、その分析のすごいこと。そんな手の込んだことしてたのかと驚くばかり。


■ 鑑賞後、Tくんといろいろ話す。芸術が、言葉に換言できない悦びの運動を与えるものだとしたならば、写真はシャッターを押すという運動こそが悦びであり、絵画や書道はその筆を動かす手の運動こそが悦びなのだと考えられるわけで、完成されて作品になってしまった時点で、その運動はもはや失われているのではないかと考えられる。ただここで、かなり無理やりにエネルギーはその形態を換えるだけで総和は一定であるというエネルギー保存の法則を当てはめてみると、例えば作り手の悦びの運動エネルギーは、作品になったことで位置エネルギーに変わっただけで、そのエネルギー自体は失われていないのではないかとも考えられる。それが本当に悦びの運動を持った作品ならば、受け手はその作品の位置エネルギーを感じることで、その向こうにある運動エネルギー、つまり作者が体験した悦びの運動を一瞬でも共有できるのではないのか。芸術と触れ合うというのはそういう体験なのではないのか。


■ で、そういう風に芸術を定義するとしたら、演劇という芸術は、観客が目の前にいる舞台上で演じられる運動そのものであり、位置エネルギーに変わったものではない。その運動エネルギーを直に体感できるという、芸術の中でも数少ない稀な分野なのではないのか。そこが演劇の他の芸術分野と異なる素敵なところなのではないのかと思うわけです。


■ そういったことをしゃべったりしたのだけど、その他にも本能と芸術の関係を話していたときに、本能は生まれ持って備わっている(内部にある)もので、芸術は学ぶことによって、触れることによって感じることのできる後天的な(外部にある)ものであるから、その二つはかけ離れた場所に存在しているのかもしれないけれど、「人間は自分が理解できないものに畏怖する」という本能があるからこそ、芸術と呼ばれるものが作られるのではないかという話がでて、そういった本能とか人間の根源にあるものと芸術の関係についてはまだ自分の中でも全然まとまっていないのだけれども、今後いろいろ考える上でとても大切なことなのではないかと思えた。本当に刺激的で楽しかった。


■ Tくんからジョン・ケージは良いとか、ベルクソンを読むべしとか、ドゥルーズの『記号と事件』は難解だけど読むといいとか、中平卓馬の『なぜ、植物図鑑か』(晶文社)や『まずたしからしさの世界をすてろ』はもう高価すぎて手に入らないと思うから図書館で探してくださいとかいろいろ薦められた。楽しそうだからいつか読みたい。ちなみにこのサイトで中平さんの写真が数点観られるのだけど、素敵な写真なのですよ。