東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『ある子供』

■ えー、雪が降ってます。東京初雪です。いやはや、寒い寒い。


かげわたりのホームページに『東京の果て』で演奏してくれた全曲の音源がアップされてます。『東京の果て』に当日お越し頂いた方には、かげわたりのみんなの好意でサウンドトラックCD(デザインもとても素敵)を配布したのですが、限定された人にしかこの曲が届かないのは本当にもったいない。僕が言うのもなんですが、どれもかっこいいのでいろんな人に聴いてもらいたいなと思います。考えてみれば、自分の芝居に音楽を作ってもらうなんていうのは、すごく贅沢なことで、なんというかものすごく幸せな気分です。


■ 20日(金)。恵比寿ガーデンシネマ『ある子供』を観た。日経エンタテイメントという雑誌でダウンタウン松本人志さんが映画評を連載していて、ちょうど今月号がこの『ある子供』だったのだけど、そこではかなり酷評していた。異義を申し立てるとかそういうわけではないんだけど、自分とはずいぶん違う意見だったので、自分なりに思うところ書いてみたい。


松本人志さんの文章を読むと、「何がいいたいのかわからない」とあり、その意見に達する理由として「生まれてきたこどもをお金になるからと売ったりしていたような悪い男が、(物語の終わりにある事件に関して)いきなり自首したり改心するのは唐突だし、最後にすんなり全てを許す妻の行動も理解できない」という旨の文章を書かれていた。これは僕なりの解釈なので、もしかしたらもっと違うニュアンスなのかもしれませんが、僕は松本さんがこの映画をこういう風にとらえて評価したという前提で以下の文章を書きます。


■ 『ある子供』のストーリーの詳細はホームページなどにあたっていただきたいのですが、かいつまんで話すと、盗みで生計を立てている20歳の若者ブリュノと18歳のソニアにこどもが生れる。きちんと生活しようとするソニアをよそにブリュノは相変わらず盗みを働き、果ては生れてきたこどもをお金目的で闇ルートを通じて売買してしまう。結局、こどもは戻ったものの、その一件でソニアと喧嘩をしてしまい、ブリュノはその後一人で再び盗みを働きながら生活をする。そしてある窃盗事件を起こす。この事件で一緒に犯行を行った仲間が警察に捕まってしまい、ブリュノは自ら警察に出頭する。それから時が過ぎ、ソニアは刑務所に面会に訪れる。ソニアを目の前にしたときブリュノは涙を流す。二人は無言のまま固く手を握り合う、というもの。


■ 松本さんの文章の「生れてきたこどもをお金になるからと売ったりするような悪い男」というところに注目して考えてみたいのだけど、それにはまずこの映画で押さえておかなくてはならないポイントがあると思う。それはタイトルにもなっているがこの映画の焦点が『子供』であるということ。そして当然、この『子供』とはブリュノでありソニアである。


■ 映画の中の場所の設定がベルギーであり、ホームページのイントロダクションを引くだけなので仔細を知らないまま書くけどベルギーの若年層の失業率は20%を超えているのだという。それがどのくらい深刻な問題なのかはわからないのだけど、今回の『子供』を取り巻く環境がこういう状況下であることを認識しておく必要は少なからずあるはず。そして主人公、ブリュノは働くことに対する意欲がない。映画の中でも働くことを拒絶する台詞を言うところがある。かといって生活するためにはお金が必要。そこでブリュノが選んだ道が盗みだ。


■ この盗みは、目前に存在する生活することに直結する行為なので、ブリュノにとって善悪の問題になるまえに正当化されていると思われる。つまり悪意はない。一方で一緒に盗みを働く仲間たちはブリュノよりも年齢の低い(明確には示されていないが、学校に通っている描写があることと見た目から中学生以下の義務教育下の)者らである。彼らは帰る家があり、養ってくれる親がいるものと思われる。推測するに、彼らにとって盗みは生活と直結しておらず、おそらくは「悪いことをする」ことそれ自体に目的があると思われる。つまり仲間たちはブリュノとは異なり典型的な不良としてこの場に登場させていると思われる。監督は、ブリュノと、同じく盗みを働く仲間を、意図的に異なる背景に置いていると考えるべきだ。おそらくその違いの中にこの映画の焦点である『子供』の存在が定義できる。ブリュノは『子供』で、仲間たちは「こども」と位置づけているのではないか。


■ この映画での「こども」は年齢的に親の保護の元にある層をさしていると思われる。彼らが起こす行動は親への反発や、社会的に悪いとされている行為を悪いと自覚しつつやるといういわゆる不良と呼ばれる人たちがする行為に位置づけることができる。この「こども」の行為は自分自身が社会の中にいることを知った上での苛立ちや反発から発生する行為だ。そういった行為は作用(社会)に対する反作用(抵抗)としての行為であり、いわゆる反抗期の行動ととっていいのではないか。当然、この問題も重要だろうが、しかしこの映画では「こども」の行為は問題にしていない。


■ その辺の問題は金八先生に解決してもらうとして、ここで問題にしている「子供」はもっと年齢が上の人たちのことを言っていると思う。ブリュノやソニアのように20代前後の人たちだ。親の保護から離れ、社会的な責任を持たなければならない年齢に移行してきつつある層のことをいうのではないか。そして、ここでいう「子供」とは社会的な責任にある立場にあるはずなのに、「こども」のような行動をして自分の行為に責任を取らずにいる人たちのことをいうのではないか。ブリュノにとって盗むという行為は、善悪の問題の前に生活に必要だからという理由で正当化される。それと同様におそらく子供を売るという行為も善悪というくくりに入ってない。自分に必要だからその行動をとるだけにすぎない。善悪で区別できる行為なら社会に対する作用反作用で示せるが、ここにそういった両方向に向かうベクトルはない。自分が正しいと思えば全てが正当化されるという自分から一方的に発せられたベクトルだけが存在する。こういった考え方を持つ人たちをこの映画で『子供』と定義しているのではないか。


■ 僕が文章を読んだ感じでは、松本さんの目線はブリュノを「こども」として位置づけていると思われる。繰り返すけど松本さんが言う「そんな悪い行為」をブリュノはおそらく悪いと思ってやってない。ブリュノの行為を松本さんは善悪で捕らえようとするから、上のような解釈にたどり着くけど、おそらく善悪ではくくれない部分にこそ今回の映画の主題はある。短絡的にまとめるのは軽率だけど、自分が悪いことをしていたということを反省する行為を「こども」からの脱却であるとし、自分の行った行動がどういうもので、その行動に責任を持って動けるようになることが「子供」からの脱却であるとするならば、この映画は間違いなく後者に対して向けられている。だから、松本さんの「こども」目線でこの映画を語ることは、その点で少々的をはずれているのではないかと思ったりするわけです。


■ 実際、映画の中でブリュノとソニアはかなり「こども」だ。川べりでは足をひっかけあって遊んだり、石を投げ合って遊ぶ。公園にいっちゃあ、炭酸飲料を掛け合ったり、芝生の上で追いかけっこする。車の中でもいちゃついてる。とにかく行動が「こども」。それに二人の服装も彼等の「こども」な感じを強調している。ブリュノは派手な緑色のTシャツ、ジーンズ。ソニアはミニスカートにブーツ。おまけにジャケットはわざわざおそろいのものを揃える。こういった些細な描写は二人の良好な関係性を示すとともに、2人が「大人」ではなくまだ「こども」だというところを強調するために使われていると推測できる。これがある年齢以下で親の保護の下にある層の行動なら「こども」の行為として許されるが、しかし彼らはすでにその年齢を超えている。社会に自立して生きなければならないし、赤ちゃんまでいるのだ。だから彼等の行為は「こども」ではなく「子供」とくくられてしまう。


■ さらに映画が進むにつれて彼等の「子供」っぷりが明らかになっていく。生れたこどもを売ったと聞かされたソニアは失神して病院に運ばれる。そして頭にきて警察を呼んでブリュノを逮捕させようとする。ブリュノはブリュノで警察をなんとか嘘でごまかそうとするために親にまで口裏を合わせてもらうように小細工をする。そしてソニアが失神してしまったことに怯えて、慌てて売り払った子供を取り返しにいくが、闇ルートでの子供の売買を反故にした腹いせに町のチンピラに痛めつけられる。一見かなり切実に見えるシーンが続くが、よくよく考えると2人の子供な態度が引き起こしたことにも見えなくもない。喧嘩してブリュノと口も聞かないソニアの頑なな描写などものすごく子供にみえる。ごっちゃになりそうだけど、「子供」は決して「こども」ではない。「こども」ではいれない位置にいるにもかかわらず「こども」な態度を取り続けてしまう人たちが「子供」だ。


■ さらにブリュノは子供であるばかりでなく、駄目な男だ。ソニアと喧嘩して家を追い出されてしまうが、ことあるごとにソニアに謝罪しにいく。「悪かった」「これからは生まれ変わるよ」と口にする全ての台詞は上辺だけ。上辺だけと判断できるのはその次に出てくる台詞が「金をくれないか」だから。「玄関のドアの下に隙間があるだろ、そこからお金を出してくれよ」みたいな、見事なまでに駄目な台詞まであり、そのあまりの駄目さ加減に思わず笑ってしまう。


■ だけど、これはきっと切実な問題なのだと思う。「子供」から脱却することは容易ではない。それは言葉を口にすることで変わるものでもない。言葉で変わるはずがないことの意思表示として、監督は上で書いたように「これからは生まれ変わるから」と口にするブリュノにすぐに「金かして」という台詞を言わせたのだと思う。


■ 転機は唐突にやってくる。窃盗事件を起こしたブリュノが警察に自首するのだ。松本さんが書いたように「なぜそれまで平気で悪いことをしていたのに、急に改心したのかわからない」と見えてもおかしくないくらい唐突にブリュノは出頭する。


■ 確かに映画の中に、劇的で明確な分岐点はなかったように思う。映画は脚本家や監督の創作のものであるわけだから、ならば明確で劇的な物語の転換をつくらなかったところにこそ、監督の意図をみるべきだと思う。その姿勢におそらく監督が信じるリアルと呼べる世界観が見えてくる気がする。映画において劇的と呼ばれるような出来事(きっかけ)がなくても、実際の世の中では、2択を迫られるような瞬間が訪れて、どちらかを選ぶものである。2択のうち、いずれかを選ばせる要因は、その人が積み重ねてきた経験や時間の中からしか生れない。判りやすいはっきりとしたきっかけなんか、そうあるものではない。映画の終わり、ブリュノを警察に向かわせた根拠は、映画の中で描かれているブリュノが過ごした赤ちゃんが生れてからの数日間のすべての出来事の中にしかないし、その中にすべてあるはずなのだと思う。だから、きっと監督はこの90分ほどの映画の中で、80分以上をブリュノが警察に向かう根拠として描き続けていたはずなのだ。そこを、どう捉えるかは観る側の自由であるからこれ以上は何もいえないけど、松本さんが唐突と感じたとして、僕には根拠は充分に描かれていたと思った。


■ そして、また松本さんは「唐突に人がそんな風に変わるのはおかしい」と書いていたが、それはその通りで、おそらく人はそんな簡単には変われない。ブリュノもソニアもおそらく変わってなんかいない。なぜなら、直面する生活は変わらないからだ。金がない。職もない。借金はある。赤ちゃんを育てなければならない。もしかしたらブリュノは刑務所から出所しても、また盗みを働くかもしれない。そこは誰にもわからない。


■ だけど、最後のあの瞬間、ソニアにあって涙を流したとき、少なくともあの涙は自分がしてきた行動に対する悔恨が流させたと思えるわけで、それはつまり「自分がいいと思えば、なんだってやっていい」という行動をブリュノ自身が疑問に思えた結果であるわけで、ここにブリュノの『子供』からの成長の可能性を感じることはしてもいいはずだ。


■ 注意すべきは、おそらくこの悔恨の念は、それが社会的に悪いとされる行いをしたから生じたわけではなく、あくまで自分がやってきた行動があまりにも一方的なベクトルの中でしか行われていなかった「子供」の行為だったことに気づいたから生じたと思える。今回はたまたま社会的に悪とされる窃盗であっただけに過ぎない。だからこそ善悪の問題(つまり「こども」の問題)と勘違いされる可能性もあるけど、おそらくここは決定的に違う。つまり盗みが悪いと思ったから出頭したわけではなく、自分がとった行動が自分にとって許せないものだったと思ったからブリュノは警察に出頭したのだ。


■ そしてあの場所にやってきたソニアにもブリュノを受け入れるという行為を経て『子供』から変わる可能性を見出せるのではないか。あの場所で、あの瞬間に、それこそ劇的に2人は『子供』から変わる可能性を獲得したのだと思う。


■ 80分以上かけて、彼らが「子供」から脱却する根拠となるなんでもないような日々の生活を描き、ラストの数分でそれこそ劇的に彼等の変化を描く監督の手つきを、唐突と評価するより、むしろ爽快感を与える心地いいものだと僕は評価したい。


■ しかし最後のシーンは本当に極々些細な希望を提示したにすぎない。彼らはすっかり変わったなんて口が裂けてもいえない。だけどまったくの0だと思われたものが、0.001%でも変わる可能性が生れたあの瞬間を見れたことに僕は喜びを感じるし、救われたと思えた。その後は、もう監督の口からは語られない。あとは観客がどう受け取ってどう想像していくかである。それは映画を越えて、現実を生きる自分へとつながっていく。


■ 作家でミュージシャンの中原昌也が映画などの芸術全般についてとても素敵な言葉を言っている。

『映画なり文学なり音楽なりというのは、自分が知り得ぬ感情や風景、時間を追体験するものであるべき』

僕はこの『ある子供』から自分では経験できない出来事(ベルギーに住む、赤ちゃんを売買する、警察に捕まる等)を経て『子供』から脱却する人の姿を観るという体験を与えてもらった。なんて贅沢な体験だったか。だからこの体験を自分の生きる糧にしていきたいと思う。本当に心からそう思う。