東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『落花流水』

■ えらく寒い一日。2月も最後にきてやってくれる。


スタジオジブリの最新作『ゲド戦記』の予告編が映画館で公開されているらしいのだけど、それに先駆けて日本テレビの『ズームインSUPER』で予告編が放送されたそうな。予告編は3分あるらしいけど、それをノーカットで放送したとのこと。日テレ、力はいってる。で、よもやと思いネットで検索をかけてみたら案の定、予告編を公開しているサイトを発見。おそらく勝手に流しているのだろうと思いつつ、つい見てしまった(で、さっき改めて見ようと思ったら見れなくなっていた。なんか警告受けたのかな?)。周知の方もいるだろうけど『ゲド戦記』の監督は宮崎吾郎という方で、宮崎駿の息子さん。予告編を見るに絵の雰囲気は『ハウル』や『千と千尋〜』よりも『ナウシカ』に似ている。もっと似ていると思ったのは『シュナの旅』。宮崎吾郎宮崎駿から影響を受けているとしたら、やはり幼少の頃に見たと想像できる初期の作品なのか。それとも『ゲド戦記』の原作がもともとそういう世界観で構成されているのか。原作は判らないので判断しかねる。ともかく内容は公開を待つのみ。


NHK教育テレビの芸術劇場で放送していた『その河を越えて、五月』を録画しておいたものをやっと見た。この作品は青年団平田オリザさんが日本の役者、韓国の演出家・役者と合同で作り上げた作品。舞台の場所はソウル漢江の桜の木が植えてある河のほとり。花見をしに集まる韓国語を学ぶ年齢も職業も異なる日本人グループと韓国語教師である韓国人。そしてその韓国人の母と弟夫婦。展開される他愛もない会話の中に現れてくるのはまずは人種間のズレだけど、それだけではない。例えば日本人同士でもサラリーマンとして働いている者と定職につかないものとのズレがある。韓国人同士でも日本に対して好意的な印象を持つもの、嫌悪感を持つものがいる。韓国語教師の母親は、日本語教育を強制的に学ばされており、日本語を流暢にしゃべることが出来る世代として登場している。日本に対する嫌悪を持ちながらも、幼少の頃に触れた日本の文化(和菓子や浜辺の歌など)は今も大事なものとして母親の中に存在する。韓国人としての誇りを持ちながらも、カナダへの移住を考えている弟夫婦。それに反発する母親。韓国とか日本とかそういう土地に縛られずに生きたい韓国語教師。そこにさらに在日韓国人と日本人・そして韓国人との関係性も現れてくる。国や世代を超えた、人と人の関係性が複雑に絡み合ってくる。

落花流水

とは劇中で韓国語教師によって発せられる台詞。日本と韓国が抱える現在の関係性を河のほとりに見事に出現させている。劇中に数回流れる「迷子のアナウンス」や、物語の終盤、ものすごい速度で河を横切るモーターボートを見つめる人々という描写は時間の流れのあまりの早さに戸惑い迷う人たちを表現したものではなかろうか。


■ ところで、舞台に置いてあった桜の木は満開の花びらの中に緑色の葉が出ていたように見えた。つまり葉桜。日本の本州の場合、桜はピンク色一色のとてもきれいな時期がまずあって、それから花が散って、葉がでてくる。しかし北海道では暖かくなる時期が4月の後半で、桜の木の年周運動の都合上なのか、桜の花が咲くのと緑色の葉が出てくるタイミングがほぼ同時になってしまう。僕が大学生の頃、北海道で見た桜は葉桜が大半で、もちろんそういう桜にも味わいはあるものの、関東のピンク一色の桜を知っている身としては、少し残念に感じてしまうこともあった。タイトルに五月とあり、日本の感覚からすると花見にしては若干遅いのではないかと思うけど、韓国の緯度や経度はどちらかというと北海道よりだし、と、すると韓国の桜も葉桜が多いのかなと想像する。そういった環境的な要因で舞台に置かれただけではなく、おそらくこの葉桜は『遅く来た春』の象徴としてあると思う。それもまた希望と捉えることが出来ると思う。


■ そして劇中で歌われる『浜辺の歌』が大好きなのであります。素敵な歌だよ、ほんと。でも、韓国の人たちが強制的な日本教育の中でこの歌を歌わされていたというのはいろいろ思わずにはいられない。もっと別の出会い方でこの歌と出会えたら、また別の印象でこの歌を歌えたのかもしれない。だけど、強制的な場所で出会った「浜辺の歌」をそれでも大切なものとして歌い続けてくれているということは、それはまたすごく素敵な気もする。

《参考》

『その河を越えて、五月』に関する平田オリザさんのインタビュー』

『「こえて」いこうとすること』