東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『風の強い日のこと』

■ えらく風の強い一日だった。それもでたらめな方向に吹いていた。自転車で駅まで向かうのに、行きも逆風帰りも逆風だった。ちょっとしたトレーニングの気分。


■ で、やっとこさ駅に着いたら『強風のため、電車が遅れて乗客の皆様には大変ご迷惑をおかけしております。まことに申し訳ありません』とひどく丁寧な放送が流れていた。それを聞いて僕は勝手に変な気分になっていた。この『申し訳ありません』は一体何に対して言っているのだろう。当然『電車が遅れて』にかかっているのだろうけど、でも原因は『強風』ですぜ。強風は自然現象なわけで別にJRの社員が起こしたわけではない。社員が『寝坊した』ために電車が遅れた、というならば謝罪の必要もある気がするけど。なんで自然現象までJRが謝らなきゃならないのだろうか、というか、JRに謝られる筋合いなんてないと僕は思った。申し訳ありませんって言葉を使うときって、自分の非を認めてかつ、以後はそういう事態にならないように気をつけるって意思表示がある場合に用いるものではないのだろうか。自然現象である強風が原因で電車が遅れたことに改善の余地ってあるのだろうか。むしろ横転しないように慎重に運転してもらうほうが有り難いわけで、少なくとも僕は迷惑なんてこれっぽっちも感じてない。


■ なのにこの腫れ物に触れるような丁寧さはなんなんだろう。当然、乗客であるお客さんに対する態度がそういう言葉遣いを使わせるのだろうけど。なんだろうなぁ、接客っていうのが本当に気持ち悪いことになっている。チェーン店がいたるところに作られて、アルバイトによる接客が増える中で、接客の作法がマニュアル化されていくのは必然だろう。でも、なんか型にはまったような接客ばかりが蔓延ってる。あのマニュアル化された接客態度というものはお客さんと近づくための接客ではなく、お客さんと一定の距離を保つための接客だ。つまり好感を持ってもらうためのものではなく、怒られないための接客というか、プラスに作用するためではなくてマイナスにならないための接客だと思う。居酒屋で『喜んで』って言われても、言われる側も言う側もそこには何もないことをどっちも判っている。まぁ松屋とかマクドナルドに入ってまで親身な接客を要求してない自分がいるのも確かだ。そもそも他人に対する礼儀なんて迷惑かけない程度で十分なのかもしれない。でも、なんだろう、この上辺だけな感じ。すごく気持ちが悪い。


■ 話がちょっと逸れた気がしたけど、つまりJRのアナウンスになんとなく『とにかく謝っておけばいい』というニュアンスを感じたわけです。電車が遅れたことで困る人っていうのは確かにいるけど、でも、自然現象に関しては仕方がないとしかいえないのではないか。特に交通機関なんて事によっては命に関わる場合もあるんだし。慎重であるべきときは慎重すぎるに越したことはないだろうし。こうやって何でもかんでも謝られたら、なんだか返って信用できない。場合によっては謝らないことにも、売り手側のプライドっていうものが必要なのではないのだろうか。まぁでも、そういう態度にJRがなってしまうことにはきっと乗客の側にも責任があるのだろう。とりあえず謝っておけよと無言の重圧をかけているところがあるのかもしれない。どこかで買い手と売り手の関係がおかしくなっている気がする。上辺だけの接客が横行する。上辺だけの誠意で済まされる。接客をする方もされる方もただ冷ややかにその行為の上を素通りする。うーん、アナウンス一つで考えすぎなのだろうか。


■ 話は変わる。縁あって最近平田オリザさんの戯曲に触れる機会が多い。『砂と兵隊』『東京ノート』の戯曲を読んだ。『東京ノート』はすごく良かった。遠くで聞こえる戦争の足音に実感もないまま、自分に関することで精一杯になっている人たちの中で、姉と義理の妹の交流には暖かい体温のような温もりを感じる。


『演劇が、人間の精神の振幅を描く装置であるとするなら、この作品は、その精神の振幅の、もっとも微細なところを炙りだそうという試みだったのかも知れません。』


とは『東京ノート』によせて平田オリザさんが語った言葉。これ、やはり実際の舞台を観たい。


■ 『東京ノート』に出てくる登場人物たちはまだあらゆる出来事を自分の外部において知らん顔して、自分の物語を生きることができる立場にいた。だけど『砂と兵隊』に出てくる登場人物たちは外部にいることを許されない。外部にいることを許されないけど、かといって自分がどこにいるのかはっきりしない。砂で敷き詰められた舞台の上を上手から下手へ通り過ぎることしかできないままなのに、それでもすでにその出来事の当事者になってしまっている。物語が不条理というよりはすでにその場所にいる登場人物の存在自体が不条理なものになってしまっていた気がする。


■ 『東京ノート』が1994年。『砂と兵隊』は2005年。『東京ノート』において、劇的で大きな物語は排除され、劇中に出てくる人々は勝手に自分の好きな生き方だけをしているのに対して、『砂と兵隊』では物語はおろか、劇中に生きる人物にさえも自由はない。作品を通して『イマ』を見つめる劇作家の目があるのだとしたら、もはや現代に生きる人間には好き勝手に生きる自由がなくなっているのだろうか。戦前、もしくは戦中を意識したかのような作品になんともいえない救いのなさを感じる。