東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『顔のない裸体たち』

 
松瀬研祐 2006/03/26 01:47
NHK教育テレビ『芸術劇場』で放送していたコンドルズの公演『JUPITER』のビデオを見た。学ランで踊っていた。確か学ランって肩パットのようなものが入っていて腕を上げづらい作りになっていたように思えたのだけど、そんなことはお構いなしに踊っている。あれはやはり特注の学ランなんだろうか。


■ メンバーそれぞれの身体の作りが異なっている印象。ダンスのための身体を持っているというわけではなく、それぞれの身体の特性を活かしたパフォーマンスを行っているようにみえた。その中でも目がいくのは近藤良平さんの身体。その飛び跳ね方が他の誰よりもしなやかに見える。ジャンプ力の問題じゃなくて。上に高く飛ぶだけだったらもっと飛べる人もいるのだろうけど、そういうことではなく飛び跳ねるまで、飛び跳ねている最中、着地そしてその後の動き、それらの連続した動きを総合してどこかしなやかな印象をうける。


■ 新潮12月号に掲載されていた平野啓一郎さんの『顔のない裸体たち』を読む。同じ号に掲載されていた岡田利規さんの『三月の5日間』と似ているのはそこに男と女が出てきて性行為にふける点だけど、文体はまたずいぶんと異なる。岡田さんの文章が登場する男と女の一人称の語り口で話が進行していくのに対して、平野さんの文章はその2人を見ている第三者の目線から描かれている。どちらも過去に起こった出来事を回想していくように書かれていながらも、前者が「行為」に対して感想を語るようにあくまで事後の立場を取る一方で、後者は「行為」に至る過程を事前の立ち位置に戻って克明に書く立場を取っていると思う。平野さんの文章は犯罪のプロファイリングの結果を読んでいるような印象。


■ 平野さんの文章は登場人物たちの行動に対する動機のようなものをとても滑らかな文体で至極丁寧に教えてくれているだけに判りやすい。というかむしろ判り易すぎるように思えた。プロファイリングのようなその文章は登場人物たちの動機を共通言語にまで翻訳してくれている。一方で『三月の5日間』のような一人称の独白形式だとその語り口に彼らなりの動機はある程度うかがえるものの、それはあくまでその人個人の動機にすぎず共通言語にはなってはいない。本を読みながら、もしくは読後に登場人物の動機を共通言語に翻訳していく過程、共通言語にしないまでも、自分なりに消化するための空白の部分は岡田さんの書き方にあるように思える。今の僕には想像させる余地を与えてくれるそういう文章の方が楽しい。とはいえ平野啓一郎さんの文章はすごく面白い。他の作品が読みたくなった。平野さんのサイトによると『顔のない裸体たち』はもうすぐ書籍として出版されるそうな。『顔のない裸体たち』に関するコメントも書かれてあった。