東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『ドキュメンタリーは嘘をつく』

■ 26日(日)。テレビ東京で放送していた『森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』を見た。テレビ東京の公式ホームページの言葉を用いると『フェイク・ドキュメンタリー』というジャンルになるらしいけど、そういう風に区別してこの番組が仕掛けた『オチ』を見て「なんだ、そういうことだったのか」と言って終わってしまうわけにはいかないと思うのは、番組の中で登場したゲストのコメントはドキュメンタリーを制作する上での、はたまたテレビやあらゆる媒体の報道を見る上で受け手が考えなくてはならない大事なことを語っていると思うからで、ドキュメンタリーもそれを制作した人たちの主観でしかありえなく、その主観を自分の中できちんと考えて、さらにその画面に映っていない枠の外側の世界を意識する必要があると思うからです。


■ まぁそれは置いておいて、《役者》森達也さんのとぼけた感じはコメディーを見ているみたいで面白かった。ラーメン食ってる場所やゴルフ練習場にいる時にカメラが突然目の前に来るって、もうそれだけで冗談みたいな設定で、森達也さんのちょっと困ったような表情とかには思わず笑ってしまいました。そしてあの空振りとか。とにかくすごく挑戦的で野心に溢れた面白い作品だと思いました。


■ 『群像』3月号に平野啓一郎さんと青山真治さんの対談が掲載されているのでそれを読んだ。『顔のない裸体たち』について何か語っているかなと思ったけど直接それに関する言及はなかった(あとから考えてみて、新潮社から発行されている文芸誌に掲載された小説を講談社の文芸誌の対談で語るわけがないってことなのだろうか)。ただ小説を書く際のいわゆる「神の視点」という手法に対して平野さんが考えていることが書かれてあって興味深かった。


■ その対談を読んだ僕の感想ですが、仮に「神の視点」のように書かれてあってもそれが読者の想像力を妨げるってわけではないと平野さんは考えているようです。「神の視点」なんてありえないわけで、そういう風に書かれていることも筆者が提案した一つの考え方でしかない。読み手は小説の内容を全て正しいと思う必要はないし受け入れる義務もない。読んで自分が違うなと感じたら何が違うのかを徹底的に考えてそこにある差異や小説との距離を自覚すればいい。そういう風に小説が批判されるのであればそれはそれで構わないという風に書かれているように思いました。確かにそれは最もだなと思いました。


■ あともう一つ対談の内容で興味深かったのは自分の「リアルの耐震構造」が古くないかを疑う必要があるということ。何か作品を見たとき、例えばどこかのシーンでふと疑問に思うことがあったとして、そこが自分の理解できる「リアル」の範疇になかったときにその作品全てを否定してしまうようなことがあるのはもったいない。むしろその時、自分の中の「リアル」を一度疑ってみる必要があるのではないだろうかということ。


■ その文章を読んで思い出したのは『スマステーション5』という番組で黒澤明特集をしたときゲストで来ていた爆笑問題太田光さんが語った言葉。黒澤明の作品が好きな太田さんだけど初めて『乱』とか『デルス・ウザーラ』を見たときはちょっとその良さがわからなかったらしい。だけどそれらも、これまで数々のすごい作品を作ってきた黒澤明が作った作品であるわけで、よく判らないってことはむしろこっち側に問題があるのではないか。今はよく判らなくても自分が50歳になるころにはひょっとしたらその良さに気付くかもしれない。そう考えて、いつまでもそれらの作品と付き合っていきたいというようなことを語っていた。


■ とにかく考え続けることなんだろう。一見しただけで「よくわからん」と作品を放棄するのではなく、とにかく出来る限りその作品と向かい合ってその結果「この作品のここが違うと思う」とか「やはりよく判らなかった」ならばそれもまた一つの答えなのだろう。平野さんはあえて「神の視点」を取り入れた作品を作ったのだろう。そうやって提示された筆者の考えから何を受け取るかは読み手であるこっち側にすべて委ねられている。何も遮るものはない。もっといろいろな視点から考えることが大事なんだろうと思いました。