東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『あだち充的なもの』

■ 水曜は風邪で仕事を休んだ。こういう時の線引きはそれこそ自分でしかできないのだけどなかなかに難しい。だるいし鼻水はでるし頭は痛い。とはいうもののまったく動けないほどかと言われたらそういうわけじゃないし、現に今、こうやってパソコンを打てるくらいには復調している。がんばって仕事に行けば働けないこともなかったなぁと思うけど、まぁ自分に甘い線引きをしてしまいました。そういうわけで水曜はずっと寝てた。おかげで体調は回復してきたと思う。


■ ずっと寝てたけど昼頃に昼食を買いに近所のコンビニに行った。そこで水曜発売の雑誌などを立ち読み。少年サンデーで連載しているあだち充の『クロスゲーム』って開始当初は4姉妹と主人公の話って設定だった気がするけど次女が死んじゃって第一部が終わってからは三女と主人公の話になっているような。部分部分のパーツは組み替えられているけど、どことなく『タッチ』と似ている。まぁ似てるとか云々言っちゃうとあだち充の漫画は扱われるスポーツとか設定がかわるだけで、根底にあるものはどの作品もほとんど同じだと思う。主人公やヒロインのキャラクターも狙っているとしか言えないくらい変わらないし。『顔変わんねぇなぁ』ってつっこみいれながらそれでもあだち充の漫画を読み続ける人がいるのは、結局のところ作品は変わっても根底で変らない『あだち充的なもの』をその人たちが欲するからなのではないのだろうか。


■ これは僕の勘だけどこの『あだち充的なもの』を欲する人の9割くらいは男だと思う。そのうち5割くらいは『タッチ』から見ているそれこそ僕と同世代(から少し上の人も含む)の男たちなのではないのだろうか。『タッチ』が少年サンデー誌に連載されたのは1981年なので当時僕はまだ3歳であり『タッチ』をタイムリーな時期に読んでいたわけではない。『タッチ』はアニメから入った。アニメの放送は1985年からだからそれでも7歳なのでまだ幾分早いわけだけど、『タッチ』は何度も再放送されており、僕らの世代もアニメ版『タッチ』を中学生とかそれなりのホクホクした年齢の時に見る機会があった。と、いうわけで僕自身も『タッチ』世代だと思ってる。


■ 僕の周りの人たちの意見を聞くと、『タッチ』のヒロインである浅倉南は男性には好評だけど女性にはすこぶる評判が悪い。「あんなぶりっ子どこがいい」という辛辣な意見を持つ女性もいる。きちんとした統計を取っているわけではないからなんともいえないけど、この浅倉南に対する評価の違いに男性が描く好きな女性像と女性が描く好きな女性像の違いがあるのではないかと思う。


■ ところであだち充の漫画ってそんなに時代設定が重要じゃない気がする。高校野球漫画が多いため、春夏秋冬の季節変化はかなりはっきりと描かれているけど、時代設定はむしろぼやかされている。今、やっている『クロスゲーム』も平成って感じはしない。絶対違うというよりは昭和ともとれるし平成ともとれる。つまりどっちともとれる気がする。これは『タッチ』にも『H2』にもいえる。もちろん画風の違いや、作品ごとに主人公のファッション等は変化しているが、それらも時代を象徴するようなものが取り入れられているわけではない。流行に遅れすぎずかといって乗り過ぎない程度に落ち着いているといった具合(浅倉南はパーフェクトな聖子ちゃんカットだったけど)。この時代設定を明確にしないというのはあだち充作品の一つのポイントだと思う。


■ 作中の時代設定はおいといて、あだち充が『タッチ』を発表した年が1981年というのは注目すべきだと思う。あだち充のデビューは1970年。意外とデビューは昔。興味深いことにデビューから8年間、つまり1977年までに関わる作品は全て別の人の原作があり、あだち充自身は絵を描くだけに留まっている。僕自身は原作者が別人の作品は『初恋甲子園』(原作やまさき十三)しか読んだことがないので判断できないのだけど、『初恋甲子園』は確かに野球漫画で主人公やヒロインの造詣も今のあだち充の作品に通じるものはあったけど、それでもいわゆる『あだち充的なもの』を欲して読もうするとどこか違う気がした。読んでもいない他の作品を否定するつもりはないし、きっとそういう原作者がいる作品で絵を描いていたことが今のあだち充を産む原動力になっていると思うけど、この時代はまだあだち充にとっては潜伏期間であったのではないだろうか。


■ 『あだち充的なもの』の萌芽を見出せるのは1978年に原作者がいないオリジナル作品として初めて発表した『ナイン』だと思う。この作品で自分なりのスタイルを確立させたのではないか。そして以降、『陽あたり良好!』『みゆき』(1980年)、『タッチ』(1981年)、『スローステップ』(1986年)、『ラフ』(1987年)、『虹色とうがらし』(1990年)、『H2』(1992年)と発表する。あだち充の代表的な作品は1980年代を中心に量産された。


■ この1980年代にあだち充の作品が支持されたことは興味深い。1983年に中森明夫が雑誌で初めて「おたく」という言葉を使った。この時代は日本においていわゆるおたくというものが表面化した時代だ。また1980年代は上野千鶴子が登場し、女性が社会にどんどんと進出していった時代でもある。おたくを男だけに当てはめるのは違うとは思うけど、これらの二つのことはこの時代の男と女について考えるとき重要だと思う。大塚英志さんの『「彼女たち」の連合赤軍』(角川文庫)に以下のような文章がある。


『しかしこの「母」であることを欠いた「人工的な世界」こそが戦後社会においては男たちにとって「母」の替わりである。他方女たちは戦後社会の中で「身体」そのものを「人工化」させてきた。(中略)「人工」的をサブカルチャーに置きかえるとあるいは更にわかり易いかもしれない。男たちはサブカルチャー化した世界に生き、女たちは身体そのものをサブカルチャー化される。』


補足すると、女性は社会に出るために、男と対等になる必要があり、そのため自分の女性的な部分、「母性」を排除しなければならなかった。で、そうなると男は女性に「母性」を求めることが出来なくなり、自分の理想とする母性像=女性像を人工的な世界つまり二次元の創作の中に求めるようになった、ということ。この考え方を当てはめるとこの当時の男にとっての理想とする女性像と女性にとっての理想とする女性像が食い違う理由が理解できる。


■ 時代としては少しズレるけど1987年から始まって90年代はトレンディドラマが爆発的に流行った。フジテレビの「月9ドラマ」では男と対等に働く女性、自分がやりたいと思うことを積極的にやる女性像がつぎからつぎへと提示された。トレンディドラマが描く女性像は多くの女性の理想を形としたものとして存在していた。一方で『タッチ』等あだち充の作品に描かれる女性像は多くの男性の理想として存在していた。月9とタッチはそれぞれ向けられた対象は異なるものの、どちらもその時代を生きる人の憧れや理想を形にしたものとして機能していたと思う。


■ 2000年以降、『月9』ドラマは低迷していく。もっと具体的にいうと多分『やまとなでしこ』以降だと思うけど、この辺から、理想とされる女性像がはっきりしなくなっていく。ドラマの主役も働くかっこいい女性ばかりではなくなり、木村拓哉が弁護士になったりパイロットになったり(あ、これは月9じゃない)アイスホッケーの選手になったりF1レーサーになったりする。果ては孫悟空が出てくるドラマを作ったりしていて、トレンディドラマはもはや影もかたちもない。あだち充の作品も『H2』以降である『いつも美空』、『KATSU!』は共に2000年に発表された作品だがどこかそれ以前の作品に比べて印象が薄い。何が以前の作品と違うのか。あまりはっきりしない。多分、作られる作品にたいした違いはない。むしろ変化したのは作品を見ているこちら側なのではないだろうか。おそらくトレンディドラマの衰退とあだち充の作品の衰退はどこかでつながっている気がする。それは男性が描く理想の女性像も女性が描く理想の女性像もここにきて変化していることを示しているのかもしれない。もしくはそれ以前に、理想をドラマや漫画に求めなくなっているのかもしれない。ともかく何かが明らかに変化している気がする。ここをきちんと考えることで今の時代を考えることができるのではないだろうか。


■ とはいっても、一概にそうも言えないこともわかっているのですが。『H2』は2005年にテレビドラマ化されてるし、『タッチ』は映画化された。『ラフ』もまた今夏に映画化されるわけであだち充作品が時代と合っていないとは言い切れない。ただ少しいやらしい見方をしてみると、ドラマや映画を作る製作者がかつてそれらを見て育った人たちであり、また観客もそれらを観て育った人たちが大半なのではないのだろうか。僕らの世代が『タッチ』をひとつの理想を形作ったものとして見たように、今の中高生は映画『タッチ』を受けとめたのだろうか。まぁ映画もドラマも興味がないので見てないから僕には何も言えないのですが。


■ 1980年代にあだち充が出現したのは奇跡のような偶然なのではないか。70年代にずっと潜伏し、やっと『あだち充的なもの』を描こうとした時、まさに時代が『あだち充的なもの』を必要としていた。80年代のあの時代だからこそあだち充の作品は大勢の男たちにとって必要だった。それは月9にも言えた。確信犯のように時期を見計らっていたようにも思えるけど、ここ数年の活動を見ているとあだち充は単に自分が描きたいものを愚直なまでに描き続けているのだなぁと思う。全然変ってない。時代が移り変わろうとも、時代に左右されずに、今までどおり時代性を排除した『あだち充的なもの』を描き続けている。おそらく月9の時代は終わった。もう見る側はそれを欲してない。ではあだち充の作品はどうなのか。原点回帰のように『あだち充的なもの』がいっぱい詰まってる印象を受ける『クロスゲーム』が今後、どのような評価を受けるのかは、だからちょっと興味深い。


作品の発表年等はあだち充 - Wikipediaを参照しました。