東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『赫い髪の女』

スズナリ

■一部、ご意見を頂いて本当にその通りだと思ったので、文章を削除。もっと自分の書く文章を多角的な視点から見れるようにしようと思いました。


■ 8日(木)。地元から2駅ほど行ったところにあるちょっと大き目の本屋で買い物。

  別役実 『ベケットと「いじめ」』(白水Uブックス
  堀井憲一郎 『若者殺しの時代』(講談社現代新書
  福島聡 『機動旅団八福神』4巻(エンターブレイン
  うすた京介 『ピュ−と吹く!ジャガー』11巻(集英社

ピューと吹く!ジャガー』以外、全て探すのに苦労した。どこにあるのか判らない。それで店員に尋ねたのだけどすると「出版社はわかりますか?」と聞かれる。それを知っていたらもう少し自分で探せる。『若者殺しの時代』は堀井憲一郎さんが『週刊文春』で連載をしているのをまとめた本だとばかり思っていたので「文春の文庫か新書かと思います」と適当なことを言ってしまった。探しに行ってもらった店員が持ってきた本を見ると思いっきり『講談社現代新書』と書いてあった。教訓としてはお目当ての本が決まっている場合は出版社もチェックしておくことだなと思いました。


■ それから本屋の近くにあるショッピングセンターへ。そこに入っているシネマコンプレックスで映画を観る。『ダヴィンチ・コード』。と、いうのもたまたまタダ券をもらえて、まぁタダならせっかくだしと思ったからです。ミステリーというジャンルの作品はたくさんあるんだろうけど、トリックや謎解きの面白さだけでなく、その場に漂う雰囲気なんかもミステリー作品の魅力なんだと思うが、この映画はそういう匂いたつような雰囲気はない気がした。謎を提示してその謎を解読するだけのような。印象だけですが。


■ それにしても久しぶりにシネマコンプレックスと呼ばれる映画館に来た。スクリーンがでかい。音響もすごい。座席も広々してるし。そこそこ身長がでかい僕が長時間座っていてもあまり疲れない。そういった施設面は新しい映画館はやはり充実してる。まぁ、こういうところでもっといろいろな種類の映画が観れれば素敵なのだろうけど。それにしてもこういうところは予告編が長くはないか。それもまた映画館で映画を観る楽しみといえばそうなんだけど施設の注意とか同じ映像を毎度毎度見せられるのはしんどい。


■ それから下北沢へ。

神代辰巳 『赫い髪の女』 鑑賞

ずっと観たかった映画。原作は中上健次。僕が初めて買った中上健次の作品は『水の女』(集英社文庫)という短編集で、その本の最初に掲載されているのが『赫い髪の女』の原作である『赫髪』。だから中上健次の作品として僕が初めて触れたのはこの『赫髪』になる。なぜそれを買ったのかというと、特に深い意味はなく、たまたま近所の古本屋にそれが置いてあったから。


女と男がセックスを繰り返す描写が延々と続くので戸惑った。そこに流れるジメっとした空気感はそれまでに読んだ小説では味わったことのないものだった。僕自身はこの短編集の中に入っている『鷹を飼う家』という作品に特に刺激を受けて、そこに流れる空気感を意識してかつて『夜を盗む』という戯曲を書いてみたりした。それはさておき。この本の巻末に解説を書かれていたのが神代辰巳さんだった。当然、『赫い髪の女』についても触れていてそれでいつか観たいと思っていた。


■ 冒頭で赫い髪の女が車道を歩いているシーンがまずかっこよかった。片側を車がビュンビュン通り過ぎていく。そんなことを気にせずにひたすら歩く女。憂歌団の音楽が流れている。そこにダンプカーが向かってくる。女は避けようともしない。ダンプカーが女を避けるように少し逸れる。すれ違う女とダンプカー。そこで映像が止まりタイトルのテロップが入る。かっこいい。


■ 映画の大半は原作同様、主人公である光造の部屋のシーンが多く、そこで赫い髪の女とひたすらセックスを繰り返す。窓の外は雨が降っている。会話をしているときも、セックスをしているときも雨の音がずっと響いてる。画面にはジメッと湿度の高い雰囲気が漂っている。神代辰巳さんは『水の女』の巻末の解説でこう書いている。

『男達が女を漁るように、女達も男を漁る。五分五分のせめぎあいである。』


映画はそのせめぎあいを何度も映し出していく。


■ 原作と映画で異なるシーンがあったのは、光造と赫い髪の女の関係とは別に、主人公の職場の同僚とまた別の女の関係性が描かれているところで、この描写は原作にはなく映画のオリジナル。彼らの年齢設定は主人公たちよりも若くしてあるようで、映画の後半、その2人は駆け落ちをして町を飛び出すが、赫い髪の女はその話を聞いて「若いなぁ、若いっていいなぁ」とつぶやく場面がある。光造と赫い髪の女は家の中からも出ずに、ひたすら身体を重ねあう。原作では主人公は28歳とされてあったが映画の光造はもう少し年をとっているように思えた。このあたりの年齢設定に神代辰巳さんなりのオリジナリティがあるのではないか。ちなみに同僚の役は阿藤海が演じている。偶然だけど昨日観た友人が出ている芝居にも阿藤海もとい阿藤快が出ていた。阿藤快はすっかりいいおじさんになっていて決して若くはなかったけど、映画の阿藤海は無鉄砲な若者だった。決してグルメリポートはしていない。とにかく映画にも原作にも共通しているのはそこに漂う空気だ。男がいる。女がいる。ねっとりとした湿度のある濃さだ。家に帰ってから改めて『赫髪』を読み直してみて、一つの言葉を見つけた。

『赫い髪の女がどこで何をしていようと、今の光造には興味のない事だった。女は温もりを持った体であればよかった。』

そういう作品だと思った。