東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『街の記憶/消滅の記憶』

■ 仕事で京葉道路を走る。荒川を渡り、錦糸町を通り越すとやがて両国国技館を右手に見つつ、隅田川にかかる両国橋を渡る。そこからは中央区日本橋


■ 『en-taxi』の2006年夏号に『小林信彦 街の記憶/消滅の記憶』という特集があったので購入。小林信彦さんが、両国や日本橋のあたりについて文章を書いている。ネット上の地図を見てもらえば判るのだけど、現在は隅田川を挟んで右側が両国で、左側は東日本橋になっているが、この地図の東日本橋2丁目あたりは1971年(昭和46年)までは両国と呼ばれていたのだという。つまり両国は隅田川を挟んで両方にあった。呼び名としては右側は東両国とよばれ、左側は西両国と呼ばれていたそうな。小林信彦さんは西両国、東京市日本橋区両国生まれ。消えてしまった方の両国生まれ。この特集はその消えてしまった両国について語ったもの。


■ さまざまな文献を引用しつつ江戸時代から明治時代の街の風景を語り、さらに作者自身の実体験に基づいた昭和初期の街の風景を紹介している。手触りを感じる文章。そういった文章の中の、以下のような文章からはその当時、隅田川がどういう風に土地に影響を与えていたのかを伺える気がする。

昭和七年に西両国に生まれたぼくは、両国橋を渡って東両国、本所方向に行くのがこわかった。それは生まれついてから叩き込まれた禁忌ではないような気がする。誰にも教えられなかったにもかかわらず、橋の向こう側がこわかった。


そう語ってからこう続ける。

吉見氏(吉見俊哉氏 *引用者註)は両国全体を<異界>と表現している。
隅田川は江戸の内外を分ける<境界>とされていた。

隅田川に両国橋が初めて架かったのは1661年なのだそうな。それまでは橋がなかった。隅田川を直接見た人は判るだろうけど、かなり川幅が広い。きっと橋がなければ渡ることは困難だったのではないか。おそらく橋が出来る以前、それぞれの土地はまったく別々に街を形成していったのだろう。そして橋が出来て、繋がったあとも、何かしらの住み分けのようなものが続いたのではないか。そこに漂う雰囲気の違いを小林少年は自分の肌で感じ取ったのではないか。こういう文章は読んでるだけで本当に楽しい。


■ 今、そういったかつての東京を知っている人が昔の面影がなくなってしまったと語る両国橋を渡る。隅田川の大きさも昔と変わっているのだろうか。


■ Jose Gonzalez 『Veneer』購入。この前見たSONYBRAVIAのCMで使われた曲『Heartbeats』が聞きたかったので。アコースティックギターと歌声がシンプルでいい。


■ 今日の空日記。暑さ復活。だけど雲だけ見ると秋の空。