東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『日記について』

ビルの隙間からの観覧車

■ ひとつ仕事が急遽入ったので、日曜にシコシコと作業をやった。仕事には刺激を受けるものと刺激を受けないものの2つがあるとしたら、今回の仕事は断然、かなり、猛烈に、思う存分後者だった。作業をやってるときは、正直、苦痛以外の何もなかった。けれども。今日、その仕事によって、ある打ち合わせがそれなりにスムーズにいき、ああ、こうやってそれなりに刺激を受けない仕事も報われたりもするのかと少し思った。そうすると、あまりの苦痛に耐えかねて、いくつか手を抜いてしまった部分に関して、もう少しきちんとやればよかったなと思ったり思わなかったりする。


■ 友人から緑内障に関するサイトを教えてもらった。こうやって日記を発信することで得られることがいくつもある。日記に書いたことに関してコメント欄やメール、はたまた会っておしゃべりをするときに、いろいろな方から意見をもらえたりして、そういうことからいろいろ面白いことを教えてもらえる。ありがたやありがたや。緑内障に関するサイトはいろいろと参考になる情報があるので40代以上の方は一度覗いてみてはいかがでしょうか。


小林信彦さんの『和菓子屋の息子―ある自伝的試み』(新潮文庫)は、東京の下町といえばしばしば連想される『寅さん的』な下町とはまた異なる世界のことが紹介されていてとても面白かった。文章の中にはしばしば著者の祖父の日記が引用される。この日記がほんとに日々の記録を留めておくだけの短い文章である。例えば、こういう日記が掲載されている。

昭和七年七月十日
午後六時 耕一郎氏来ル 水瓜(スイカ)ゴ持参ニナル


これだけ。でも、考えてみれば日記なんてものはもともとこういうものだったのではないか。小林信彦さんが自分の記憶に残っている過去とこういったごくごく短い文章を照合することで、過去の出来事を再発見していく文章はなんだかそれだけ面白い。実際のところ祖父の日記をもとに小林さんが推測した出来事は確認のしようがないので、それが事実であるかは判らないわけだけど、すくなくともこの本に書かれていることは、祖父の過去に触れ、自分の過去を振り返る経験を通してなされた行為であって、小林さんにとっては『事実』以上に『真実』であるのだと思う。日記を読み返すよろこびはこういうところにもあるのではないか。まぁ、こういった日記とブログとはそれぞれの持つ性質からいって同じ立ち位置で比べることはできないのでアレだけど、僕も僕なりに改めて日記をブログで書くことについて考えていきたいと思いました。それはブログに関して友人たちから受ける指摘がまず「長いよ」だからだ。もっとシャープな文章を書きたいモンです。


■ 仕事に関して、悶々としていた悩みが一つあったのだけど今日の夜になってふとまったく逆転の発想を思いつく。それでちょっとわくわくしてきた。刺激を受けるものだろうが、そうじゃなかろうが、仕事に自分が潰されるのはまっぴらだ。かといって自分の何かを守ろうとすると仕事に対して防御してしまう。そうではなくむしろ仕事に向かっていくことで道が開けるのではないか。攻撃こそ最大の防御って言葉が猛烈に頭の中をよぎる。


■ 今日の空日記。職場の近所に小学校がある。そこから子供たちの楽しそうな声が聞こえてくるのだけど、それがどうもプールに入っているような歓声。小学校のプールってこの時期も入ってたっけ、なんてことを思ったりした。