東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『ここ数日と如雨露と月』

■ 先週の木曜日(8日)にある仕事で、朝方にとある高原にいたのだけど、諸事情あって、ほんの少しの間だけ、ほぼひとりぼっちでその高原で待機することになった。あたりは誰もいない。まだ日も明けていないのだけど、遠くの方の空に月がぽかんとあって、その月明かりのおかげでなんだか明るい。そして静かだった。とても静かだった。民家からも離れていたし、車の音も聞こえない。物音一つしない。多分、僕のこれまでの生涯の中で、あれほど静かな場所にいたのは初めてのことじゃなかろうかと思う。とても不思議な体験だった。きっとそれ以上、そんな状態でいると心細くてどうにかなってしまったかもしれないし、必ず誰かはここに来ると判っていたからその場所にいれたのだけれど、それを考慮してもなにか、今までに感じたことのない世界に立っているような気がした。で、書いていてふと思ったのだけど、あれはどこか誰もいない、例えば月の表面にいたような、そういう感じに近いのではないかと思えた。いや、まぁ、月の表面のこともよく判らんのだけど。

で、これが、その草原。

そしてその時、見えた月。

携帯のカメラだとほんと点にしか見えないが。


■ ばたばたと仕事をやっていてヘトヘトになる。体力のなさが身に沁みてくる。そんな中でかげわたりのPV撮影に関してもいろいろ進めている。10日と今日、12日も打ち合わせをやった。それで、というか、ちょっと前の話し合いですでに決まっていたのだけど、PVの撮影は16日(金)の夜からライブハウスEDGEでバンド演奏シーンを撮り、そのまま翌日17日(土)にPVに入る東京の風景シーンとかげわたりの面々が街に立っているシーンの撮影を強行することになった。かなりきついと思うのだけど、ここでいい画を撮りたい。そのために当日のスケジュールやそのための準備に打ち合わせを費やしている。これはまた、芝居を作るときのスケジュールとはけっこう異なる。手探りな部分も多く、それが不安材料になる。ただ、まぁ、準備は着々と進めているし、良いモノが作れそうな手ごたえもある。


■ 10日の打ち合わせのときに、ふとしたきっかけで『じょうろ』とは漢字でどう書くのかという話になった。僕の携帯で文字変換をすると『上呂』としかでなかったのだけど、他の人たちが調べたところ『じょうろ』は『如雨露』と書くのだということが判明した。アメツユノゴトシとはなんとも素敵な漢字じゃあないかとみんなで感心した。



■ で、そういった中で、束の間の空いた時間を利用してオムニバス映画『ユメ十夜』を観た私でした。早稲田大学宮沢章夫さんの授業に潜り込んだとき、宮沢さんが、夏目漱石は「こんな夢をみた」と最初に文章を書いたところに、良い意味でもそして悪い意味でも小説家としてのうまさがあるというようなことをおっしゃっていた。今回の映画も、十夜のオムニバスそれぞれが夢の話なだけに、えらくでたらめなものが多いのだけど、それらの大半はどこか「これは夢の話であって、でたらめなんですよ」という書かれた話のでたらめさという前提にのっかり過ぎて作られているように思えて、どうも入りこめなかった。僕にとっては唯一、実相時昭雄監督の作品だけが、そういう話のでたらめさだけではない『でたらめさ』(例えば、窓から差し込む光や、女中の動きの残像、舞台セットが作り物であることを堂々と見せることなど)が、でたらめを超えたものとしてあり、面白かった。あと、松尾スズキさんの作品は、でたらめさが物語の枠を超えて突き抜けているようで、それはそれでまた面白かったのだけど。


■ それで、今日はかげわたりのライブが下北沢であった。僕はライブにはいけなかったのだけど、仕事を終えた後に打ち合わせに合流。冷静に考えてみると、もう撮影は今週の金曜に迫っているのだ。あっという間だ。谷川さんが何か大事なことを忘れているような気がするとしばしば口にするのだけど、そういう風に不安になるのもよく判る。僕も何か肝心な準備を忘れているのではなかろうかと心配になるし。打ち合わせを終えた電車の中で、谷川さんと話をしていたときに、ちょっとベラベラをしゃべりすぎたような気がして反省。まぁ、とにかく、前に進んでいくしかない。撮影まであと4日。