東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『ライブ/舞踏/ここに幸あり』

■ 自主映画の脚本を少しでも形にしようと、深夜のデニーズにノートパソコンを持って出向き、云々と逡巡しながらとりあえず形にできたものをひとまず冨江くんにメールして、いろいろ終わったのは朝の5時過ぎ。さすがに疲れて寝る。


■ それで10時に起きて、捻挫治療のため近くの整形外科へ。腫れも引き、痛みもそれほどではないのでもう完治かと思いきや、すくなくともあと1週間はギブス状態で、その後6週間も今より簡易ではあるけれどギブスをつけなくてはならないらしい。つまり今は治りかけの状態で、この時期に足首を再び捻るといよいよ捻挫が癖になってしまうらしい。完全に治り、もう大丈夫となるまできっちり固定する必要があるとか。自業自得とはいえ、これはなかなかなことになってしまった。それから歯医者へ。人生史上、初の病院のハシゴ。治療中のもう『ダメ』になっている歯の神経を完全に抜いた。それでも受付で『次回は・・・』と言われる。当分は通院生活が続く。


■ 夜はかげわたりのライブへ。久しぶりの六本木EDGE。詳しくは知らないがライブハウスのオーナーが替わったらしく、そのせいなのか舞台の設備やBGMの選曲等いろいろなものが微妙に変わっていた。それはさておき。かげわたりの演奏はこの日もよかった。かげわたりの曲の中では比較的最近作られた『カミナリ』と『Avethang around the moon』という2曲の激しい具合の曲があるのだけど、この2曲の演奏がとてもよく、初めてこの2曲の輪郭を僕の中でちゃんと理解できた気がした。そんな按配で今回のライブも全体的に良かったと思ったのだけど、例えばカタカナの谷川さんは、その後のスローな『ケコとカコ』という曲で少しダレた印象を受けたのだという。なるほど、そのあたりは人それぞれ違うものだ。


ギター鈴木君から演奏姿を撮ってほしいと携帯を渡され、ライブ中にパシャパシャと携帯写真を撮っていた。終演後、なかなか楽屋からかげわたりの面々が出てこないと思ったら、鈴木君が「俺の携帯がない!」と騒いでみんなで探していたのだという。君が撮ってくれと言ったのに。ライブのテンションでそんなこと忘れてしまったのだろう。ライブ後、酒飲みだけ池袋に移動して少し飲む。3時過ぎに帰宅。


■ 日曜。起きたら13時をまわっていた。ぼんやりしたままシャワーを浴びて、それから三軒茶屋のパブリックシアターへ。大駱駝艦の『カミノベンキ』という公演を観る。この劇団に、むかし一緒に芝居をやったHくんがいて、その誘いで観劇。舞踏というものを初めてきちんと観た。ベクトルが地面に向かっている印象。土に根ざしているような身体の動き。終演後、H君に自分が持ったそういう感想について話すと、確かに舞踏は、西洋のバレエのような上へ向かうベクトルを意識する身体性と真っ向から対抗する意識で作られたのだと教えてくれた。笑ったのは、舞踏を作った最初の人たちの意識に「(バレエのようには)飛びはねねぇぞ」という考え方があったということで、何もそんな頑固にならなくともと思うけど、偶然ながらそういう意識が、騎馬民族の生み出したバレエに対抗して農耕民族独特の土に根ざした踊りとしての舞踏を作り上げたのではなかろうか。


それにしてもHくんは大駱駝艦に入って心身ともに充実しているみたいだった。劇団員は公演の際、髪や眉毛を剃らなくてはならないので、ツルツルとしていたけれど。かつて一緒に芝居をやったときから、魅力的な役者さんだったけど、身体が固い印象も受けていた。公演中、剃りあげて全身を白やら黒に塗っている人たちの中からHくんを見つけようとしたのだけど、見つけられなかった。かつての固い身体のH君はもう舞台にはいなかった。鍛え上げたのだろうな。大駱駝艦の身体はかなり作りこまれてる印象を受けるし。Hくんの身体はそういう風に作りこまれることで魅力的になっているのだろう。


■ それから恵比寿へ。ガーデンシネマでやっている『ここに幸あり』を観る。タイトルからして『月曜日に乾杯!』のような陽気な映画を想像していたのだけど、まったく違った。主人公を取り巻く環境がきついし、登場人物がいちいちダメなやつらばかり。


登場人物たちはしばしば酒や煙草を他者にめぐんでくれと頼む。一方が「煙草をくれ」といい、もう一方が煙草を与えたときに、彼らの中に発生するのは『贈与』。映画の冒頭、政治的な関係から相手に対して品物を贈与するシーンがあるが、こういった表面上の関係のために受け渡された品(でかい鳥等)に対する扱いは杜撰。主人公は贈られたのであろう品々を次々と『要らん』と一蹴する。その杜撰さが、こういった関係の浅薄さを示すのかもしれない。やがて主人公は、大臣の座を追われてしまう。主人公の元妻は、上手い具合に鞍替えをして裕福な生活を維持するが、彼女は新しい夫の金銭を使い服やオブジェを次々と購入する。彼らの関係はほどなく破綻する。また、主人公の『孫の手』を盗んだ男は、やがて自分の店が潰れるという悲劇に直面するし、いくら不法であったとはいえアパートに住む黒人の貧しい人々を立ち退かせた主人公は、それとはまったく関係ない喧嘩の仲裁中に頭を負傷する。これが立ち退きを直接指揮した国の捜査官が、黒人の女性に受けた頭の傷と一致するのは、救急病院で傷を負った2人が出会うことからも確信的であると思われる。だから尚更、素性を知らない主人公が、頭を負傷した指揮官を見てこっそりと笑うのは滑稽でありつつ、少し怖い気もする。喧嘩の原因も店が潰れた理由もはっきりとは描かれない。ただ、結果だけが示される。純粋な『贈与』以外にモノを持った人たちは総じて一度、不幸に直面する。では純粋な『贈与』を行なった者たちは、例えば煙草を与えて何を得たのか。それこそが画面からも伺えるが『幸』と呼ぶべきものだったのかもしれない。物語のラスト、アパートを追われた黒人の人々は、主人公に、それが自分達を追い出した張本人だと知ってか知らずか、煙草を与える。大臣の座を追いやられたもの同士で煙草の贈与が行なわれるシーン。それらのシーンに溢れる『幸』。彼らの暮らしは先々もとても苦しいのだろうけれど、そこに流れる時間の幸福さたるや。さらに主人公を取り巻く女性たちが一同に会して食卓を囲むシーン。なぜ彼女たちが和解したのか、そんな理由はどうだってよく、ただ、今こうして楽しく語り合い食事を食べる『幸』がある。原因(過去)はもうどうでもいい。とにかく今、ここ、の『幸』がある。オタールイオセリアーニの作品は、それを大上段に語るのではなく、さりげない煙草の贈与のやりとりのなかに描いている。その手腕。本当に面白い映画でした。


それにしてもこの日記の分量はなにごとか。