東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『都市のドラマトゥルギー』

■劇作家宮沢章夫さんのweb日記を見て、吉見俊哉さんの『都市のドラマトゥルギー』に触れた文章があり、それにすごく刺激を受けた。以下、引用。

「盛り場」というものは一般的に「都市のなかの商業的・文化的施設の集中した一地区」と規定されるが、それだけでは物足りないとして、「盛り場」の「盛(サカル)」という言葉に着目する。「基本的に『盛』は、エネルギーの高い、高揚した状態を指し、『サカリがつく』という言い方に示されるようにしばしば性的なコノテーションを含んでいる」ということを前提に、吉見さんは次のように書く。

つまり「盛り場」とは、もともと流動的で一時的な「盛り」を、他の場所よりも濃密に抱えた空間であり、したがってこの言葉の本来の重心は「容器」である商業施設や娯楽施設よりもまず、「中身」である「盛」そのものにある。/換言するなら、「盛り場」は、施設の集合や特定の機能をもった地域としてある以前にまず〈出来事〉としてあるのだ。


この前、銀座について考えていたけど、やっぱりさまざまなブランドの店(つまり「容器」)だけではない何かが銀座にあって、引用の言葉を借りれば、「出来事」があるからこそ魅力があって、その場所にいけば、なにかが起きそう、な、そういう場所が『盛り場』なのではないか。それに出会いたくて、都市へ向かうような気がする。それまでなんとなくぼんやりとしていたことを明示された様な気分になる。


でもって、さっそく帰りに『都市のドラマトゥルギー』を購入。


■話し変わって、この前の週末に和歌山に行った時にまわした8ミリをテレシネしたDVテープのプリントがやっとこさあがった。さっそくHDに取り込み、ファイナルカット上に読み込む。

8ミリの粗い感じで、新宮の町が記録されている。
この町が『盛り場』かといえばそうではないだろうし、小説に描かれたあの『路地』の印象とはずいぶんと異なる穏やかな町の日曜がそこにはあったけれど、そうかといってその町にはなんにもないと言い切ってしまうのはずいぶんなことで、確かに『容器』だけを考えると物足りなさもあるのかもしれないけれど、『中身』を見た時に、そこに『盛り場』とは異なる質の濃さを見いだしたのが中上健次だったのだろうし、僕は、新宮を歩いて、穏やかなその町で、『路地』とは異なる「出来事」に触れることが出来たと思っている。

僕の見た新宮。11月の晴れた日曜。