東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『結ばれた手の中にある』

tokyomoon2010-03-24

東京は冬のように寒く雨が降る一日。


職場の方が昼ご飯を食べに外へ出かけようとすると、傘立てにずっと置いていたはずの傘が無くなっていた。結論から言うと、朝、外で打ち合せがあった別の職場の人が持って行ってしまっていたのだけど、その理由がすごい。
「ずっと傘立てに置いてあったからもう要らないのかと思って。」
こうなると、もはや置き傘という概念が通用しない。


ふと思い出した、すれ違った人の話。
2つほど思い出すままに。


先日、仕事で諸々あって職場を出たのが深夜3時過ぎになったことがあった。すぐにタクシーを捕まえるというのもなんとなく違う気がして、少し帰り道を歩いていると、前方から犬を連れた中年の男性が1人。散歩なのだろうけれど、それにしてもずいぶんな時間に、と思った。

ずいぶんと夜型の人が、寝る前に連れて行く散歩なのか。
ずいぶんと朝方の人が、毎朝の習慣で連れて行く散歩なのか。
はたまた、その日は、たまたまその時間に犬を散歩していたのか。

おそらく3番目ということはないだろう。僕には特殊な時間だったけれど、それが日常になっている人には決して特別ではないのだろう。いずれにしても人通りの少ない町を気ままに歩く犬は楽しそうだった。



これまた、仕事で始発あたりの電車で出勤する必要があった別の日。池袋駅構内を改札に向かって歩いていると、西武デパートとJRの境界付近の階段に、いわゆるホームレスの方が顔を膝に埋めて座っていた。着ている服の状態や、持ち運んでいる荷物の量などから、決して短くない時間、そういう生活をされているのだろうと推測できた。
土地柄、そういう方が多く、とはいえ僕になにが出来るということもないく、いつも見てみぬフリをして通り過ごすだけであり、その日もそれは変わらなかった。ただ、なんとなく視線をそちらに向けたときに、膝を抱える両の手のあたりに目がいき、その方の左手薬指に指輪がはまっていることに気付いて、なぜそこに目がいったのか、自分には特に意識はなかったのに、今もそこだけが脳裏に焼き付いて離れない。どのような経緯でその方が路上生活をされているのかは、まったくもって判らない。決してその人に強い思い入れがあるわけではないけれど、膝を抱えて頭を埋め、明け方の時間がただただ過ぎるのを耐えているような姿の、ずっと奥にその指輪の物語があることを勝手に想像してしまう。