東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『2番目、或は3番目など』

ワールドカップの日本戦。社内でもそうとうな盛り上がりであり、個人的にも気にならないわけではなかったけれど、気が付いたら眠っており、目が覚めたら朝5時過ぎで、すでに試合が終わっていた。朝の番組の騒ぎ方はすごかった。わざわざ深夜3時過ぎの、どこかの団地の部屋の灯りの具合をロケしているVTRとかもあったが、あれはいるのだろうか。


仕事の打ち合せにて、ある市電の走る街で育った女性から、その人の市電にまつわる記憶を聞く。中学校の通学時に市電を利用していたらしいが、実家の駅と学校まではわずかに2駅ほどであったらしいのだけど、学校から帰るときわざと1駅、実家から離れる方向に線路沿いを歩いたのだという。同級生と歩くこともあれば1人で歩くこともあり、それで市電を3駅乗って帰宅したのだという。そういう記憶を聞くことは、なんて面白いのだろう。


打ち合せ後、「金曜の18時だから」という理由で会社に戻るのを止め、下北沢へ。ナイロン100℃の『2番目、或は3番目』を当日券にて観劇。
舞台上で何かが行われる為には、当然だけど役者が舞台上に出て来なければならない。舞台には、上手に2経路、下手に3経路、舞台後方に1経路で、計6経路のではけ動線があり、17名の出演者が入れ替わり立ち替わり舞台に現れ、劇が進行する。構成から見ると、物語の頭で登場人物が紹介的に現れて以後、複雑な人物構成のように見えながら、基本的に舞台上には2人の人物による1対1の対話が、入れ替わり立ち替わり行われる形をとっているように思えた。
本作のイントロダクションとして、作・演出のケラさんの文章がホームページにあるけれど、それを読むに、意識的にもしくは無意識的に発生する差別の姿を描く作品なのかと思い、芝居の冒頭でもそういうことを匂わせる台詞が、タイトルを交えてあったのだけど、観劇後の印象としては、それとは異なるものだったように思う。人物の抱える背景が不思議と軽く思える。深い憎悪も、愛情もそこには見えず、あらゆる人物が割合にあっさりと、個人の思いを覆す。
双子同士で隠していた秘密を打ち明けてもそこに憎悪は残らない。40代の行き遅れた女性は、愛する人との縁を断ち切り、お見合い相手と結婚を決意するかと思えば、あっさりと愛する人へ立ち戻る。その愛する人自身、無き妻を愛しているのかも思いきや、あっさりと新しい愛を選択する。街の若い女性は、別の街から来た青年に恋をするが、物語の終盤では、そのことは無かったかのように話しは触れることさえしない。街に住む人たちは、自分たちの街の名前さえ知らず、やがて街が政府の手によって滅ぼされると知ると、あっさりと街を捨てる決意をする。あらゆる面で、深さがないまま、生き残った人たちはどっこい生きている。したたかといえばしたたかな人の生とでもいうのだろうか。





ツァイ・ミンリャン監督『西瓜』鑑賞。
渚にて』のアルバム『よすが』が、のどかでステキだ。


追記(6/29)
記憶が確かなれば、ナイロンの『2番目、或は3番目』で、老夫婦の会話に靴に関する話しがあり、「靴で歩くのではなく、靴によって歩かされている」という話題があったように思う。それが物語の終わりに「靴によって歩かされているのではなく、靴を歩かせている」と老人が語り、それは言いようというか、身勝手な言い方なのだけど、それでいいんじゃないかと思う一面もあり、そういう思い込みによって生き方が肯定されることもあるのではないかと思った。ここの作品に出てくる人たちは、多かれ少なかれこれに似た『思い込み』によって自己を肯定して生きている、と思った。