東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『4日分は長い』

17日(木)。夜。久しぶりに大学時代からの友人Kに会い、飲みながら話す。腰を痛めたことを話すと、長身で筋肉があまりついてない者は腰を痛め易いと指摘を受け、うぬ、その通りと痛感。獣医として医学を学んだKだからこその説得力。獣医師として動物病院で働く傍らで、大学に通う生活をするK。論文まで発表しているので頭が下がる。単純に大学に通う暮しというのがうらやましいというと、やはり大学生活は楽しいと言う。震災の時は、大学構内で酒盛りをしていたのだという。
東京における買い占めの状況には、互いに呆れており、Kも1人不買運動をやっていると言っていた。僕も同感。いや、別に買い占めしてる人をどうのこうのいうつもりはないけれど。僕は買わねぇ。電池も水も買わねぇ。困った事態に直面したら、堂々と困ってやろうと思う。というわけで楽しい夕餉。

宮藤官九郎少年メリケンサック』DVDで。


18日(金)。腰、というか腰から来る右足の痛みから、病院に行ったのち会社に行かず自宅で作業。といっても家ばかりだと息がつまるので、鬼子母神大鳥神社を散歩し、参道にある『キアズマ珈琲』で一服。平日の昼間はゆったりとしている。

夜。シネマライズにてアピチャッポン・ウィーラセタクンブンミおじさんの森』を観る。映画後半、ある場所を目指して歩く人物たちを追うカメラが、徐々に被写体を変えていき、最後はカメラマン自身の目線になる場面がある。ひいては、それはカメラ越しの観客の目線というべきか。生と死の境を表現する場面では、決まって胎動のような音が効果として使われるなど、監督の意図は明確に表現に出ている。

冷静に考えて、この日、オレはまったく自宅療養していない。


19日(土)。録りためていた映画、河瀬直美さんの『七夜待』鑑賞。『ブンミ〜』を観たらみたくなり。河瀬さんは、自分が女性であることをためらい無く映画に反映させる方だと思う。徹底して説明を排した作品でありながら、自我が浮き上がって来る印象を受ける。


夜。芝居仲間の友人たちと酒を飲む。集まって飲むのは本当に久しぶり。近況報告をするも、それぞれがいろいろやっていて面白い。例えばバク転教室に通い始めたものもいれば、ジョギングにはまり始めた人たちもいる。話せば話すだけ面白くなって笑える。みんなに会いたくなって、僕から声をかけた。いろんな人に会いたかった。話しができること、そして笑えることが、本当に貴重だなぁと思った。有り難いことに、出産祝いに、娘子用のかわいい服も頂いた。多謝。ほんと、最近、全然みんなと会えなくなっている。もっと頻繁に会って、何かいろいろ出来ればと思いつつ。


どうやら月が地球に最接近している時期らしい。教えてもらい空を見上げるとでかい満月。


サンフランシスコで働く、大学時代の先輩からメールをもらう。アメリカ西海岸にも、放射能が届いているなど震災の影響があると知る。


20日(日)。昼まで寝てしまう。起きて、これはアレだ、と思い、映画を観ようとクリントイーストウッドの『ヒアアフター』の上映館を探すも一切無い。うぬぬと思いつつ、コーエン兄弟の『トゥルー・グリット』を池袋のシネリーブルで観る。父親を殺された少女の復讐劇。コーエン兄弟風の演出が際立つところもあれば、西部劇としての王道もありつつ、見応えあり。


映画が始まる前に、機械のトラブルで上映が15分ほど遅れた。後ろの席から「停電の影響ですかねぇ」と聞こえたが、多分違うだろう。なんでもかんでも震災やそれに関わる事由にする風潮はおかしいと思う。


ヒアアフター』がその映画のストーリー上の表現から、日本での上映中止になったと後から知った。ならば、人が死んでしまう映画はすべて自粛になっちまうはずではないかとも思いながら、デリケートな問題だけに強くは言えず。


テリー・ジョージホテル・ルワンダ』をDVDで。出自の違いによる憎悪は、私怨ではないだけに、憎悪の由来が明確すぎてだからこそ極めて厄介。大枠の憎悪における惨劇の中で、ただ家族を守りたいという極めて個人的な想いから発動した行動が、やがて千人の人々を救うという事実が胸を揺さぶる。『私』が『私』に従って動くことこそが重要なのだと思う。


21日(月)。いつも通り目覚める。雨が降って気温が低い。北の方はもっと寒いのだろうと思いつつ。なぜか朝からロベール・ブレッソンバルタザールどこへ行く』をDVDで観る。徹底した冷徹な視線。朝からブレッソン(朝ブレ)はかなりクルなと実感。


ふと、東京芸術劇場でやっている野田地図公演『南へ』を観たいと思い、当日券を求めて行ってみる。野田地図の活動拠点が池袋になったのは、東京芸術劇場の芸術監督に野田秀樹さんが就任したからだろうけれど、この渋谷から池袋への移動というのは、少なからず、野田さんの中に何かの考えがあってのことではないか、と憶測するのだけど。
当日券はすでに結構並んでいた。観れないかなぁと思ったけど、立ち見で入れた。しかし、立ち見。腰からくる足の痛みにやられる身としては不安が募る。


客入れの際にあった、野田さんご自身の挨拶がグっとくる。震災によって公演を4日中止にしたこと。元来、芝居はロウソク1本でも出来ると言って来た(と、本人が言っていたので)のに、やはり公演ができなかったことに、なんともいえない気分に陥ったこと。こういう時こそ、自分にできること,芸術活動を続けねばならぬという決意表明。その通りだなと思った。


『南へ』。舞台演出に、映像が入っていたり、出演者を舞台脇のパイプ椅子で待機させるなど、いくつもの手法に、最近の小劇場でよく使われて来ているモノが取り入れられているものの、それが単なる模倣ではなく、すでに野田演出の中で表現に昇華されている感あり。その辺は本当にすごいなと思う。スピーディーでダイナミックな舞台ではありつつ、どこかかつて観た(テレビで)『パンドラの鐘』や『Righit eye』などの作品とは異なる印象を受ける。テーマに対して直接的なところが多い。それは野田さん自身の思考の変化だと思う。台詞に対する立ち位置も少し変わって来ているように思う。
物語の一つの軸となる『天皇』というキーワードにおいて、極めて重要な台詞を、自分の役の言葉として二度言うところにも、強い決意を感じる。


かつてなら、壮大なカタルシスによって物語を閉じていたような印象もあるのだけど、本作ではそれを許さない。現代において火山は噴火しない。やり場のない空気の固まりをそのままに舞台は閉じる。そこにも、『今』があると思える。


個人的に、あまり好きになれないカーテンコールというやつを2回で、「カーテンコールをここでやめさせていただきます」と自ら制し、義援金を募る姿勢も本当に立派だと思えた。今だからこそ、芝居を続ける。それは震災に遭われている人からすると「おい」と思われるかもしれないながら、でも、それでも、出来ることをやるしかない立場として、野田秀樹さんの立ち位置を、僕は断固肯定する。そういう点で、『ヒアアフター』の上映中止はやはり違和感があるのだけれども。


上演時間2時間と、長くはない公演だったとはいえ、足の痛みのせいで極めて辛い観劇。ほうほうの態で帰宅。うずくまるようにして痛みを堪える。足が痛い。


夜。嫁氏から送られて来た娘子の画像。今では、数秒ながら支えなしで立つという。かなり成長した印象。これは、戻ってくる頃には歩いているのではないか。いよいよ父親は、何もしていないぞ。そして謎のカエルのかぶりもの。