東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『新しい年に』

新年であります。


年末年始は嫁氏の実家でゆるりとした日々を過ごしており、PCの無い日々で餅を頂いたり、酒を頂いたりして過ごしておりました。携帯からFacebookなどはチェックしつつも、さすがにブログの文章を携帯から書く気力はなく。


嫁氏の実家を出たのは8日(日)で、そこから僕の実家に行ってようやく今日、自宅に戻ってきた次第。まぁ、互いの両親とも娘子を見たい願望があるわけで、娘子はその極めて暖かいジジババの愛情を思いっきり受けて悠々と過ごしていた。山形だろうが埼玉だろうがどこでも元気な娘子。


年末年始はなんとなく何やらあり、結局のところ年末に誓うように持っていった本は、佐藤真さんの本を序盤だけ読んだだけでした。とはいえ、この序盤も非常にし劇的で佐藤さんの『阿賀に生きる』を作る意志をヒシヒシと感じることが出来て刺激的です。


山形滞在中、一日だけわがままを言って宮城に車で行きました。一番の目的は、仙台市若林区に行ってみるということでした。そこは、あの震災の日、大きな揺れを感じて職場でニュースを見ていた時に、一番最初に津波の中継を目にしたところで、もちろん多くの被害を出した津波ではありましたが、僕にとってはあの名取川付近の津波が、それをテレビで目撃してしまったという点で強烈に印象的で、その場所を自分の目で見ておきたいという気持ちが強くありました。


その日、山形の天気は大荒れで、北海道の大学にいた時も体験したことがないような吹雪の中で奥羽山脈を超えると、宮城県側は積雪もほとんどなく快晴でした。高速若林インターで一般道に降りると、海岸沿いの平野のその土地は非常に開けたのどかな雰囲気だったのですが、しばらく走っていると、その場所の風景に言葉も無くしました。おそらく元々田畑だったところもあったのでしょうが、かつて住宅があった場所も田んぼだった場所もすべて関係なく、根こそぎ無くなっている場所がかなり広い範囲で広がってました。部分的には家も残ってましたが、その何も無さに、とてつもない力がそこから様々ものを奪ってしまったのだろうと思われます。
車の通れる県道をまっすぐ仙台港の方に走りました。嫁氏と娘子も乗せての運転で、嫁氏の希望もあり、停まることはせずそのまま走り抜けました。遠く内陸の方に目を向けると、仙台の都市部のビル群が見えて、なんというか、向こうの「ある」とこっちの「ない」が余計に異様な視界としてありました。


もちろん、あれから9ヶ月近い月日が経っていて、被害は確かにあったのだろうけれど、そういう直接的な被害が無かった場所はすでに活発に稼働している印象でした。仙台港の付近、かなり震災の被害があった港のすぐ近くのショッピングセンターや電気量販店は、僕の目には他の土地と変わらないように営業していた。


そのあと、多賀城市を抜けて松島の方に車を走らせた。本当は石巻気仙沼の方に行こうと思ったのだけどそれは止めた。嫁氏の希望もあったのだけど、僕自身、被害を受けた場所ばかりを見るのも違う気がしたからだ。松島は、観光地らしくそこにあった。僕らのような通り過ぎるだけの者ならば、そういう場所で『楽しむ』ことで還元することも1つなんだと思った。…と信じるしか出来ないということもあるのだけど。でも、旅の後半は、震災や津波のことは少し置いておいて宮城の町を『楽しん』だ。


時間の都合もあって、松島から高速に乗って帰路へ。仙台の町を横断する高架型の高速。海沿いの観光地から徐々に住宅の広がる都市近郊の町が見えてくる。送電線の鉄塔がやけに多く印象的だった。山形の雪雲ばかりの日々だったので、快晴の空は、素直に心地よかった。

3.11は確かにあって、それ以前と以後ではきっと大きな分断がある。あらゆるモノが失われてしまった土地は、復興して家が建ち田畑が戻ったとしても、それは確実にかつてのモノとは異なる。僕のような直接の被害の無い、それでも被災者であるという自覚のある者ができることは、それを決して忘れずにおくことなのだと思う。僕は忘れない。不謹慎かもしれないけれど、若林地区をこの目でみてよかった。そして一部ではあるけれど、宮城の町を車で走れて良かった。


新しい年が始まる。新たな気持ちと今までの思いとを併せつつ、邁進していければと思う。