東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『この年の終りに』

現在、29日(木)の朝5時ちょいと前。
前日、22時半くらいに一度寝て、2時半に起きて年賀状を作成しつつ、今に至る。


今日から嫁氏の実家に帰省し、そこで年を越す。新幹線のチケットが取れなかったこともあり急遽少し早めの帰省。完全なる満席でなくとも、娘子と猫がいる身では横並びの席でないとやはりいろいろモロモロ。で、その新幹線がべらぼうに早いのでもうこのまま起きて出発する予定。PCなどは持っていくつもりもなく、本を持っていきつつ、御馳走を頂いたりぼんやりする年越しになると予想。


振り返ると、今年はかなり仕事に重心があったような気がする。2つの大きな仕事にかかりっきりでそれはそれで学びこともあり充実してはいたものの。

やはり、それだけではどうにもこうにも。

個人的にも、社会的にもいろいろあってなんだか大きな分岐点になるような年の気がする。
生きていくためには働かねばならぬと思いつつ、働くばかりの日々も世知辛い。
見つめるべきはこれから先。


もっと、創作をしていきたい。どんな形であれ。そのための思考。
持っていく本は、庄司薫『赤頭巾ちゃん気 をつけて』。会社の上司に教えてもらい作者の名前を初めて知った。ある時代、ある空気感がそこにあり、その空気に共感とある種の違和感を感じつつもその時代を生きるしかない、というのは一度きりの生である誰もが同じ。後藤明生さんの『挟み撃ち』の主人公然り。庄司薫が本を書いた時代と、今は絶対にリンクしないだろうと思いつつ、それでもあの時代に興味がいくのはなぜか。Facebookに登録させて頂いている知人がこんなつぶやきを載せていた

『父と、まさかの演劇談議。世界を変えようとするだけとんがったやつは今いるのかと。世界中が閉塞感を感じてるなかで、その原動力を与えるのが思想だとすれば、それを生み出す力があるやつはいるのか。』

詳しく聞いたわけではないので、定かではないもののおよそ年齢的にそれほど変わらぬ知人の父とするならば、かつて自分が強く意識した時代と今を比べて発したと思われるこの発言の、その「世界を変える」は、かつてそれが出来ると、少なくとも信じられる(空気感が)時代があったのだろうと想像する。では、今は?確かに個人的にもどこか諦念を感じつつ、生きている節がある。社会に出たとき、すでに高度経済成長もバブルも過去のことであった身に、輝かしい希望を感じることもあまりできないまま、日々を過ごしている節がある。

といいつつも、別に世界を変えようとする意志で、何かを生み出す必要があるのかという疑問もある。


かつてあった、何かをしようとする衝動とは、また異なる意志によっての創作。そこには3.11を、体験した身から生じるものもきっと肉付けされるだろう。


先日、鬱屈した気分を晴らしたく、佐藤真さんの『阿賀の記憶』を見直した。映画は映画であるという立ち位置から作品を作っていつつ、これほど美しい作品もそうそうない。


というわけで、もう一冊持っていく本。
佐藤真『日常という名の鏡』

どれほど読めるかは分からぬものの、この本を2012年を迎えるお供にしようと思う。


そしてみなさま、少々早いながら、よいお年を。