東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『若者殺しの時代』

土曜。朝から曇り空。仕事に向かう途中で雨が降り出してきた。昨日までは晴れて気持ちが良かったのに、雨が降るとまだ肌寒い。

以前に町山智浩さんの『ブレイドランナーの未来世紀』の映画『ブレイドランナー』の項を読んだとき、その映画の作られ方が、いわゆるポストモダン以降の作りをしているという記載があり、同じような考え方を東浩紀さんの『動物化するポストモダン』で読んだと思い、1980年代を軸として、それ以前と以後で作品を考察する考えが僕にも興味深く、改めて『動物化するポストモダン』も再読している。宮沢章夫さんが1980年代をサブカルチャーの視点で考察したTV番組や本もあったし、僕もタイムリーで(といっても物心つく手前だけど)生きているため、肌感覚で実感できることもあり、とても興味深い。で、この前、本棚を古本屋開業に向けて整理していた際に、堀井憲一郎さんの『若者殺しの時代』を見つけて、パラパラとめくると、これもまた1983年を境にした時代の変化についての考察をしており、以前に読んだものの、うっすらとか中身を覚えていなかったのでこちらも再読。クリスマスが家族やキリスト教の行事ではなく、若者をターゲットにしたビジネスに『利用』されはじめたことは1983年からという考察を、当時の雑誌特集を調べ上げることで分析する。他にも漫画、携帯といったものを取り上げながら、バブル時に、人々がわけもわからずに、その祭りのような状態に熱狂し、浮かれてしまっていたこと、そして、それ以後、徐々に若者たちをターゲットにしたビジネスが構築されていくうえで、以前にはなかった息苦しさが世の中に出てきていることを語る言葉は、2020年の今、読んでも、その通りだと思う。というか、予見したんじゃないかと思う言葉さえあり、ちょっと怖いくらいだ。

堀井さんは江戸時代の終わりから近代化した日本のシステムが太平洋戦争で崩壊し、戦後作られたシステムが、今、終わりに近づいていると語っている。2015、もって2020年~2030年ではないかと語っていた。確かにその兆しは、3・11の後に少しあった。原発事故によって、原発による利権を重視したいわゆる資本優先な考え方が見直されるべきという考え方がでてきていたし、僕は中沢新一さんの『日本の大転換』という本が2011年8月に出版されたとき、そこに書かれた内容に強く共感した。

新型コロナによって、サービス業を中心とした分野が大きな打撃を受けている中で、社会が変わっていきそうな予感はあるというか、誰もが思っているだろうけれど、これで自粛が解除されたからといって完全に元の生活に戻る、ということは、もはや、無い。。一層、オンラインを使ったものや、在宅、人の手ができる限り介在しない形でのビジネスモデルが拡がりそうだけど、それは果たしてどんな世界を作るのだろう、と思う。オンラインで物事が完結できてしまうことは『便利』だろうけれど、実のところ、『便利』でしかない。『便利』が最優先されるべきかと言えば、そうとも思えない。

モノの流通にデパートや百貨店、小さいものではコンビニもそうだけど、流通の中間に存在し、大きな資本を産み、街を作り出した市場が改めて復活するとは思えないし、amazon楽天といった巨大なネット上のマーケットを介したビジネスが今後も伸びていくだろうがamazonの配送やウーバーイーツだらけの街もあまり面白いとも言えない。渋谷や原宿、新宿といった街へ、もちろんそれとは異なる下北沢や高円寺といった町など、人々が外へ出る面白さは確実に存在すべきだし、人と人のやりとりという当たり前のところからお金のとモノの交換が生まれることが健全だという考え方が自分の中にはまだあって、こんなご時世ではあるけれど、そんなことを思ったりする。うーん、結果、散漫になってしまっている。考えがまとまらない。

ふと、思っていることで、僕はゲームをやらないのだけど、こういう時代に、「あつまれ動物の森」というゲーム空間上の世界を作り上げていくゲームが流行することって、ある種の街を求める意識が、少し歪んだ形で出てきているんじゃないかと思う。かつて、浅草、そして銀座、新宿、渋谷原宿、と推移してきた街の流れが、こういった街へ出れない事態を受けて、架空の空間である街を求めているのではないか。

まだ自粛の明けない東京は、今も街にはあまり人はいない印象で、それはここまで肥大化した東京を生かせるには到底不可能だろうけれど、今が特殊で異常だということであれ、実際にこういう状況が起こってしまっていることについては、真に受けて飲み込まないといけないんだろうなぁと思いつつ、ぼんやりと、思う。

夜になって、雨が止んだ。明日は晴れるだろうか。