東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『砂遊び/子どもたちの夏』

少しばかり娘子が鼻水をたらすようになってしまった。それで体調が悪いとかそういうことではないし、むしろすこぶる元気なのだけど一昨日と昨日は外出を控えた。いや、娘子のせいにしてしまう感じはいかん。寒さにくじけて出なくてもいいかなと思った自分もいる。


さすがに今日も外出無しはいかんと思い、娘子と公園へ行く。娘子は体調云々抜きで「外に遊びに行こう」と言うと必ずまずは号泣する。外が嫌いってことではないのだろうが、今部屋にいる自分の状況が変わることが嫌らしい。少々強引に連れ出すと玄関先では、この世の終りかと思わんばかりの号泣をするけれど、公園まで着くと夢中で遊び始める。あの、涙はなんだったのか。


砂遊びはほんと無限だなぁと思う。ブランコや滑り台はアクロバティックに攻めるとかぐらいしかアレンジ効かないと思うのだけど、砂あそびは、そもそもが『砂』しかないからこそ、むしろ自由度が高い。娘子は『掘る』よりも砂を『蒔く』が楽しいらしく、上げた手からサラサラとこぼれ落ちる砂に夢中。


映画『子どもたちの夏 チェルノブイリと福島』がテレビでやっており、それを録画したのを観る。福島のいわき市で幼稚園に通う子どもと暮らす母親は、放射能に関する知識を積極的に取込もうとし、運動にも参加していた。

その母親へのインタビューの一つで、原発から40キロ圏内という比較的(本当に比較的だけど)危険度が低いと思われる土地において、声だかに活動することの難しさを少しだけ口にするところがある。とても言葉を選んで、どこにも刺がないように語るその姿こそ、実は考えるべきところのように思えた。

声をあげない人たちがいる。平穏な日常に戻ろうとすることを望む人がいる。僕なんかが伺いしれない想いをそれぞれが抱えて、その土地で、今を暮らしている。それでも食い違いが生じる。その食い違いから生じる綻びは、都市なんかに比べて濃密なコミュニティがある土地だからこそ、余計に浮き彫りになる気がする。どちらが、どう、ではなく。ただ、こういった食い違いが生じてしまう事態に、ただただ胸が痛い。